民主党政権時代、怖くて殆どアクセスすることのなかった
首相官邸HP.。
安倍政権になってからは、マスコミが殆ど伝えない
首相の動向を詳しく見ることができるので、
もう何度となくアクセスしています。
その中でもよく見るのが安倍総理が毎月必ず
訪れている被災地の視察。
被災地の、前向きに頑張っている明るい笑顔の
人たちがたくさん見られるのと、復興の現状などを
確認できるので。
もう一つは、各国歴訪。
昨年の中東訪問では、東日本大震災の被災地支援の
お礼も各国でされていて、こういうのってもっと多くの人に
知ってほしいし、
「被災地からのお礼の声が届いてるよ。」
とマスコミがちゃんと伝えるべきことじゃないのか、と
特に思ったことでした。↓
★安倍総理の中東訪問。震災支援へのお礼が目的の1つ。「あまちゃん」の三陸鉄道にはクウェートからの支援があった。また、各国での安倍総理の演説の中にも、
「へぇ~」と思うことなども結構あります。
つい最近のオーストラリアでは、東日本大震災で
懸命に救助活動に当たってくださった消防士さんが
豪州国会に呼ばれ、安倍総理が演説で直接お礼を
伝えるという場面がありました。
他にも歴史的なその国との関わりが、盛り込まれて
いることもよくありました。
今回、安倍総理は、9月7日(現地時間)、スリランカを
訪問しました。
↑スリランカの国旗。今回のスリランカ訪問でも、演説の中にそういったものが
ありましたので取り上げたいと思います。↓
★平成26年9月7日 日本スリランカ・ビジネス・フォーラムにおける安倍総理スピーチ【日本スリランカ・ビジネス・フォーラムにおける
安倍総理スピーチ】
(首相官邸HP 平成26年9月7日)
「日本・スリランカ・ビジネスフォーラム」に
お集まり頂いた皆様、こんにちは。
アーユボーワン。
安倍晋三でございます。
一言ご挨拶申し上げます。
私は、先ほど、首都のスリジャヤワルダナプラコッテを
訪問しました。
コロンボも大変素晴らしい街ですが、
私は、日本の総理として、この首都の名前をしっかりと
胸に刻まねばならないと考えています。
皆様よくご存じのとおり、
1951年のサンフランシスコ講和会議において、
日本の主権を擁護する演説を行って下さったのは
当時のジャヤワルダナ・セイロン蔵相でありました。
今日の日本という「国のかたち」があるのは、
その演説の大きな後押しを受けてのものです。
後に大統領となられた、この偉大な政治家の名前を
冠した、「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ」は、
日本人にとって特別なものなのです。
また、私には、この光り輝く国スリランカへの訪問に
対して、もう一つの特別な思いがございます。
1957年、私の祖父が日本の総理として初めて
スリランカを訪問しました。
あれから半世紀以上が経ち、日本とスリランカ、そして、
太平洋とインド洋を結ぶ友情の架け橋は、大変強固な
ものとなりました。
私は、今回の訪問を通じて、それをこの目で確かめ、
肌で感じることができました。
孫である私は、祖父から渡された友情のバトンを
しっかりと受け止め、スリランカとの素晴らしい関係を
更に発展させていきたいと思っています。
本日、私は、その思いを新たに致しました。
日本とスリランカとの友好関係を更に強固なものと
するには、経済関係、とりわけ、貿易や投資が
促進されることが重要です。
スリランカには、「ジャパナ・ハパナ」という言葉があり、
これは、「賢い日本人、素晴らしい日本の技術」という
意味だと伺っています。
私は、今回のスリランカ訪問にあたって、日本から
最高の「ジャパナ・ハパナ」を連れて参りました。
それがインフラ、金融、建設、物流、製造等の分野で
日本を代表する企業のCEOからなる、この経済ミッションです。
いずれもスリランカの更なる経済発展を後押しする
能力と技術、そして何より熱い思いを持った方々です。
是非、本日のビジネスフォーラムの機会を、
スリランカの将来のために役立てていただきたいと思います。
様々な分野で日本の高い技術を取り入れることは、
皆様の発展に大きく貢献するはずだと思います。
例えば、私は、先ほど素晴らしい建築様式の国会議事堂を
訪問しました。
これは、世界的建築家ジェフリー・バワ氏によって設計され、
日本企業によって建設されたものです。
そして、その改修工事についても、日本企業による協力が
進んでいます。
これは、真に日本とスリランカの協力のサクセス・ストーリーと
言えるでしょう。
新たなサクセス・ストーリーの種も幾つか撒かれています。
本年3月、スリランカにおいて、日本式のデジタル放送の
採用が決定されました。
今後、防災情報や保健情報等の迅速且つ
広範な伝達に大きく貢献することでしょう。
また、今回、農業分野における覚書も合意されました。
お互い米を愛する者同士、農業分野における新たな
協力が期待されます。
更には、今後、日本の高効率石炭火力技術がスリランカに
導入されることも見込まれています。
このような技術の導入は、スリランカの電力不足を解消すると
ともに、日・スリランカの協力による気候変動に対する
大きな貢献になるはずです。
本日のラージャパクサ大統領との首脳会談においては、
伝統的な二国間の友好関係を、「海洋国家間の新たな
パートナーシップ」へと発展させることで一致しました。
日本とスリランカ両国には、海洋国家としての共通点が
多いと考えます。
両国にとって、海を介した自由な通商活動は極めて
重要です。
私は、スリランカとの間で、「開かれ、安定した海洋」の
実現に向けた海洋分野での協力を強化し、
太平洋とインド洋を結ぶ友情の架け橋を更に
強化していきたいと思います。
今日ここに集まった官民の「ジャパナ・ハパナ」は、
域内のハブを目指すスリランカを更に光り輝く国へと
いざなうことでしょう。
私は、日本の総理として、先輩達から引き継いだ
友情の架け橋を大切に引き継ぎ、更に堅固なものに
していきたいと考えております。
是非、皆様と一緒にスリランカの発展に貢献していきたく
考えています。
今回の訪問をその新たな一歩にしたいと思います。
Thank you very much.
第一次安倍政権の時、当時外務大臣だった麻生さんが
提唱した
「自由と繁栄の弧」という
「価値観外交」↓。
★自由と繁栄の弧の形成 外務省PDFそれを元に一回り大きくした安倍総理の
「アジアの民主主義セキュリティダイアモンド構想」。↓
産經新聞より安倍総理は、今までに47カ国回っているそうですが、
この
「セキュリティダイアモンド構想」に沿った外交を
一貫して進めてきています。
昨年、消費税増税が決まった10月以降、保守派の間で
やたら安倍批判が酷くなりました。
このとき、「安倍はグローバリズムに突き進んでいる!!」
などという批判も湧き上がり、2006年に安倍政権が
誕生した時も「真っ先に中国詣でに行った!」とか
「靖国参拝しなかった!」とか猛烈な批判が起こって、
本当に驚いたんですが、それ以上の猛烈な批判が
ネットのそこかしこでまた起こっていたので、
安倍政権の進める「グローバリズム」とはどういうものなのか、
というのを調べて、ブログでいくつか記事を書きました。↓
★大切な「日本的価値観」。 道は遠く長い。机上評論家の意見は聞くだけ。 あとの判断は自分次第。で、それは、上の記事にも書いた通り、
「ジャパンブランド」=「日本仕様」、
これを広めることを目指していくということだと
思うんです。
日本が最も得意とする分野、保健衛生、防災、土木事業。
インフラ整備や法整備。「法整備」に関しては、谷垣さんが以前、国会の
法務委員会で答弁していましたが、麻生さんから
「アジアでは一番喜ばれる整備事業だったぞ。」と
言われたそうです。
(言い方は「べらんめぇ調」で麻生さんの真似をされていました。)
今回のスリランカでの安倍総理のスピーチでも
そういった方向性がはっきりと覗えると思います。
これは勿論、スリランカにも手を伸ばしている
中国への牽制ともなります。
インド洋は重要な日本のシーレーンですから。
そして、このスピーチで、取り上げられた、
「国民が知っておくべき最も重要な事」はといえば、
やっぱり
1951年の「サンフランシスコ講和会議」での、
「ジャヤワルデネ代表(当時、蔵相)演説」だと思うのです。
私はこの安倍さんのスピーチを聴くまで
スリランカの首都は「コロンボ」だとずっと
思っていました。
「スリジャヤワルダナプラコッテ」という現在の
スリランカの首都の名前が、サンフランシスコ講和会議
当時、英連邦内自治領セイロンの蔵相で、後に
スリランカの第2代大統領となったジャヤワルダナに
由来するものだということを、日本人として知って
おきたいと思いました。
★スリジャヤワルダナプラコッテ WIKI
★スリランカ首都名
「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ」
「スリ」 ⇒ 聖なる
「ジャヤワルダナ」 ⇒ 第2代大統領名
「プラ」 ⇒ 街
「コッテ」 ⇒ 元々の街の名前
■さて、当時の
日本分割統治案を確認してみます。↓
★日本の分割統治計画 WIKI"アメリカにある国立公文書館に現存する計画書によると、
■北海道・東北 - ソ連占領地域
■関東・中部(福井県を除く)及び三重県付近 - アメリカ占領地域
■四国 - 中華民国占領地域
■中国・九州 - イギリス占領地
■東京35区 - 米・中・ソ・英の共同管理
■近畿(三重県を除く)及び福井県 - 中華民国とアメリカの共同管理
という計画であった(地図参照↓)。
アメリカ国立公文書館に現存する計画書による日本の分割統治計画。
東京は米中ソ英4か国、
近畿と福井県は米中2か国による共同統治。
日本にとって非常に厳しい状況下において、
当時、
英連邦内自治領セイロンのジャヤワルダナ代表が
行なった演説。↓
(リンク先では、
ジャヤワルデネとなっていますので、
そのままで全文紹介します。)
★サンフランシスコ平和会議でのJRジャヤワルデネ代表演説【サンフランシスコ平和会議での
J.R.ジャヤワルデネ代表演説】
1951年9月6日 アメリカ合衆国サン・フランシスコに於ける、
対日平和条約の締結と調印のための会議に於ける
セイロン(スリ・ランカ)政府代表団々長J.R.ジャワルデネ閣下の演説。
J.R.ジャワルデネ閣下は現在スリ・ランカ民主主義社会主義共和国の
大統領であらせられる。
スリランカ大使館(東京)資料から
賛同を勧誘されている平和条約草案について、
セイロン国政府の見解を、この51か国の集会前に
提出する機会を与えられましたことを、私は大いなる
特典と考えます。
私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から
成り立っていますが、本条約に対して向けられた
いくらかの批判を反ばくする企てもあります。
もっとも私は、私の国の政府を代表してのみ話すことが
出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の
中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると
主張します。
私は現在、会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで
持って行った出来事について、語る必要はありません。
アメリカ代衣ダレス氏とイギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、
1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、それ等の
出来事を詳細に且つ丁寧に我々に示されました。
然しながら、次の事柄は述べて置いてもよいと思います。
即ち、本条約の草案を採用すべきであるという手続きに
関しては、四大強国の間で探刻な意見の衝突があったことを
述べて置いてもよいと思うのです。
ソ連は、四大強国だけが、即ちアメリカ、イギリス、中国及び
ソ連の外相会議だけが、それを引き受けるべきであると主張し、
そして若し条約草案作成のために他の国々が加入するので
あれば、拒否権を保留されなければならないと主張しました。
イギリスは、自治領は相談を受けるべきであると主張し、
アメリカはこれに賛同しました。
両国は又、対日戦争に参戦したすべての国々と相談することを
支持しました。
これ等の諸国の間では又、違った考慮から、条約の実際の
条件に関する意見の相違がありました。
ある国は新しい軍国主義的日本の台頭を恐れ、
他の国は日本の侵略によって生じた災害と恐怖を
忘れ兼ねて、意見がわかれました。
敢えて意見として述べますが、完全に独立した日本のための
主張がはじめて提出され、考慮されたのは、1950年1月に
開催された連邦外相のコロンボ会議に於いてでありました。
このコロンボ会議は、日本を孤立させたケースとして
考えるのではなく、南アジア及び東南アジアとして
知られている地域の一員として考えられました。
世界の富と人口の大部分を含み、最近になって漸く
自由を回復した国々からなる南アジアと東南アジア、
それ等の国々の諸国民は数世紀なおざりにされた結果、
今尚苦しんでいます。
この会議から二つのアイディアが浮かびあがりました。
一つは独立国日本のそれであり、他方は南アジア、
東南アジア諸国民の経済的、社会的開発の必然性で、
それを確保するためにコロンボ計画として
現在知られている計画が着手されました。
ケンネス・ヤンガー氏は、コロンボ会議の後に
連邦諸国長官の運用委員会が条約草案の仕事に
かかった経過を説明され、そしてその後にアメリカ代表
ダレス氏と相談されたことを説明されました。
今我々の前にある条約は、これ等の協議と折衝の
成果であります。
私の政府の見解の或る部分がそこに主張されていますが、
私の政府の見解でないものも主張されています。
私は現時点に於いて、日本と進んで和平を討議したいと
する諸国の聞で達成出来る同意の最大の共通な尺度を
告げていると、私は主張します。
日本に対する態度に於いて、
セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は、
日本は自由でなければならないという最大の考えによって
動きました。
本条約はその考えを完全に具現していると私は主張します。
日本の自由という事柄について付帯的な他の問題が
あります。
即ち自由は本州、北海道、九州、四国の主要の島々に
限定されるべきであるか、或いは近隣のいくつかの
小さい島々にまで広げるべきであるか。
若しそうすべきでないのなら、これ等の島々は
如何にすべきか。
台湾は1943年のカイロ宣言に従って中国に返
還されるべきか。
若しそうすべきであるのなら、中国のどちらの政府へ?
中国は平和条約会議へ招くべきか。
若しそうであるのなら、どちらの政府を?
賠償は日本から強要すべさか。
若しそうなら金額は。
日本が自国の防衛を組織するまでは、どの様にして
自らを防衛するのか。
日本の自由という中心問題について、我々は究極には
同意することが出来ました。
そして条約はその同意を具現しています。
他の問題については際立った意見の相違がありましたが
条約は大多数の見解を具現しました。
若しこれ等の諸問題の或るものが違った方法で解かれて
いたら、私の政府はその方を好んだでありましょう。
然し大多数が我国に同意しないという事実は、
自由と独立した日本の中心概念を含む本条約に、
我国が調印するのを控える理由にはなりません.
最初に私が言及しました関連のある事柄は、
日本が自由になれば解決不可能ではありませんが、
日本が自由にならなければ解決不可能であると
我国は思います。
自由の日本は、例えば国連組織を通じて
これ等の問題を世界の他の自由諸国と討議することが
出来、早目に満足すべき決議に到達出来ましょう。
本条約に署名することにより、我々は日本をして
そうすることが出来るようにさせます。
即ち日本が中国を承認すると決定するならば、
中国政府と友好条約を結ぷことが出来るようにと、
そして日本をして印度と平和友好条約を結ぶことが
出来るようにさせると私が述べるのは、大変
嬉しいことであります。
若し我々が本条約に調印しなければ
これ等起こり得ることは、何れも起こり得ないでありましょう。
何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと
切望するのでしょうか。
それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの
故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた
高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中で
ただ一人強く自由であった時、我々は日本を
保護者として又友人として仰いでいた時に、
日本に対して抱いていた
高い尊敬の為でもあります。
私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、
アジアの為の共存共栄の
スローガンが今問題となっている諸国民に
アピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の
或人達がそうすることによって
自分達が愛している国が開放される
という希望から日本の仲間入りをした、
という出来事が思い出されます。
セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、
空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に
属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ
供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、
我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取に
よって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に
与えるものであります。
我国はそうしようとは思いません。
何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。
大師(ブッダ)のメッセージ、
「憎しみは憎しみによっては止まず、
ただ愛によってのみ止む」
はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を
高尚にしました。
仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、
人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、
シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、
そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へ
そして最後には日本へ伝えました。
これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統で
お互いに結びつけたのであります。
この共通文化は未だに在続しています。
それを私は先週、この会議に出席する途中
日本を訪問した際に見付けました。
又日本の指導者達から、大臣の方々からも、
市井の人々からも、寺院の僧侶からも、
日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の
影の影響のもとにあり、それに従って行こうと
願っているのを見いだしました。
我々は日本人に機会を与えて
上げねばなりません。
そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、
日本の自由は制限されるべきであるという
見解には賛同出来ないのです。
ソ連代表が加えようと欲する制約、例えば日本が
自由の国であれば当然そうする資格のある国防軍を
維持する権利に加える制限といったもの、そして、
彼が提議する他の制限は、現在ここの会場に居られる
代表の大多数の方々にとって受け人れ難いものに
するばかりでなく、この会議に出席されなかった国々の
中の或国、特にこの条約のありありと心に描くところより
更に進んだ所へ行きたい印度にとってさえも、
受け入れることが出来ないものにします。
若し再びソ連がカイロとポツダム宣言に反して、
日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるのなら、
それでは何故南樺太は、千鳥列島もまた日本へ
返還されないのか?
私は興味をもって、次の事に注目します。
即ちソ連の修正案は、日本国民に基本的表現の自由、
新聞及び宗教礼拝の出版の自由、政治上の見解の自由、
及び公開の集会の自由を保証しようと要求しています。
-----ソ連の国民自身でさえも
所有し享有したいと心から
執着したいであろう自由をです。
ジャヤワルダナ第2代スリランカ大統領★ジャヤワルダナ大統領のエピソードです。↓
★国際派日本人養成講座 日本・スリランカ友好小史 H21.05.17 【日本・スリランカ友好小史】
(国際派日本人養成講座 H21.05.17)
日本とスリランカの間には、互いに助け合った
長い友好の歴史がある。
■6.皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年■
1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』が
スリランカを訪れた。
当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨーロッパに向かう
途上であった。
皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、
一人の少年がいた。
15歳のジャヤワルダナであった。
ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した際に、
宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。
外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などは
ほとんど消え去りそうになっていました。
このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下で
同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国民達は
日本を称賛し、尊敬していたのです。
先の80年の間、日本はアジアにおいて独立国として
立ち上がっていたのです。
西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を
支配していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、
時には打ち負かしていました。
陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた際には、
私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦を
一目見ようと港に行ったものでした。
当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと
共に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。
自分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する
日本の皇太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国である
イギリスに赴くという出来事は、「自分たちもいつかは独立を」
という希望をスリランカの人々に抱かせたに違いない。
ジャヤワルダナ大統領は、1995年、死去に際し献眼、
角膜提供をされ、
「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」
との遺言により、片目は日本に贈られたそうです。
日本が戦後初めて正式に国交を結んだ国も
実はスリランカだそうです。
1952(昭和27)年4月28日、対日講和条約
(サンフランシスコ平和条約)が発効し、
日本は独立国として主権を回復しましたが、
その1952年に国交を結んでいるんです。
2012年は、国交60周年で、造幣局では
記念硬貨も発行され、様々な催しも各地で
開かれたようです。

また、1954年10月6日には、日本は「コロンボ・プラン」
という戦後最も早期に組織された開発途上国援助のための
国際機関に加盟して、被援助国から援助国への仲間入りを
果たし、これを記念して日本では10月6日を「国際協力の日」と
定めたということです。
日本分割統治案が廃案となり、日本は分断を免れました。
その理由は様々な要因が重なったからでしょうが、この
ジャヤワルダナ代表の演説が、ひとつの圧力になったことは
間違いのないことであって、もし、連合国側の望む通りの
演説がなされていたならば、その流れでどうなっていたかも
わからなかったと思うのです。
歴史とは、そんな一瞬の出来事で、変わってしまう
ことだって有ると思いますから。
そして、そのジャヤワルダナ代表の演説が何故
導かれたかといえば、やはりそこには、
先人の誇るべき心と、たゆまぬ努力が
あったからだと・・。
【今日の日本という「国のかたち」があるのは、
その演説の大きな後押しを受けてのものです。】本当に・・・。
感謝の気持を持たずにはいられません。
このことを教科書で学ぶことが出来ないものでしょうか・・・。
学校で日本の子供達が共有すべきことではないんでしょうか・・。
★日本を分割占領案から守ってくれたセイロン(現スリランカ)代表の名演説KSM©