(※長文となります。


)
今回は、
前回の記事に続いての【その2】となります。
前回の記事はこちら。↓
★大分県教組の「反日洗脳ツアー」。この異常な日教組と、かつて「勤評闘争」で戦った愛媛県の地元教育者たちの存在を知っておきたい。【その1】昭和30年代の愛媛県での「勤評闘争」について
まずは、日教組というものの成り立ちから背景、
実態を
【その1】で書きました。
【その2】では、実際に日教組と戦った当時の
愛媛県教育委員長、竹葉秀雄氏ら、
愛媛県の教育者の方々の奮闘と
「勤評闘争」に対する日教組の抵抗を
見て行きたいと思います。
★愛媛の教育改革はここから始まった【愛媛の教育改革はここから始まった。
~昭和30年代初頭の勤務評定紛争を振り返って~】
愛媛県師友会ひの会
会長 近藤美佐子
(平成14年11月24日 「愛媛を愛する会フォーラム」においての講演より)
竹葉秀雄先生
さて、文部省も日教組の左傾化に、
これはと気がついて、昭和三十一年に、
教育委員の公選制をやめて、任命制にしました。
地方公共団体の長が議会の承認を得て
教育委員を任命するのです。
それで愛媛県でも五名のそれぞれ立派な方が
県教育委員として任命されました。
その一人が竹葉秀雄先生でありました。
ここで竹葉先生のことについて少し触れて
おきたいと思います。
竹葉先生は日教組と戦ってこれを敗退させましたが、
その後で日教組は愚かにも、文部省と愛媛県を
ILO(国際労働機関) に訴えたのです。
それで竹葉先生はジュネーブまで行かれたのですが、
行かれてその顛末を「ジュネーブ行」という文章に
お書きになりました。
その一番初めにこう書いておられます。
「日本は大東亜戦争に敗れた。
そしてこの戦争は日本がしかけた侵略戦争だという
烙印を押された。
私はアジア民族解放のための戦いだと思って全力を尽くした」
と。
竹葉先生という方は非常に人徳のある方で、若い頃から、
先生を慕って村の青年や子供達が先生の周りに
集まってきました。
先生はその子供達に本を読んで聞かせたり、教えたり
しているうちに次第にそれが塾のようになりました。
いまのいわゆる進学塾ではありません。
先生は三間村の庄屋の一人息子でしたが、その家屋敷を
開放しての塾でした。
宇和島や八幡浜をはじめ南豫の各地からも
先生を慕って青年たちが集まり、少年部、青年部と
併せて八十余名が素読の声を響かせ、武道の練習に
励むようになりました。
これを、「三間村塾」と言います。
そのうちに松山や越智郡、宇摩郡など県下の各地からの
塾生や、さらに朝鮮半島、北支、満州、蒙古からも
三間村塾を訪れて来るようになり、先生はそういう青年たちと
寝食を共にして教育をされました。
三間村塾で先生に教えを受けて巣立っていった青年の中には
インドや中東などの独立運動に出かけていった人達もおります。
そういう状況を考えますと、アジア民族解放のための戦いで
あったというのは、先生の痛切な思いであったろうと思います。
その当時、つまり今から七、八十年前のアジアを考えて頂きたい。
インドがどうだったか、中国はどうだったか。
仏領インドシナはどうか、フィリピンはどうか。
アジアにはまともな独立国なんか一つもなかった。
全部植民地であります。
その屈辱と貧困の中で喘いでおったのがアジアです。
日本だけが唯一の独立国でした。
周りの国を見て、なんとか立ちあがってほしい、
一緒に手を握って立ち上がろうというのが、
あの戦争の底をずーっと流れておった思想であると
思います。
だから民族解放の戦いだった。
ところが戦争が終わった後で、あの極東軍事裁判。
まあ、なんと見事に日本人は洗脳されたことか。
マインドコントロールされて完璧にやられてしまった。
日本は悪いことをした、悪いことをしたと言い続け、
教科書の中にもそれを書き、それを学校で教え込む。
総理大臣までが侵略戦争であったといって憚らない。
あの戦争で亡くなった二百四十万の将兵の方々に、申し訳ない。
戦後の日本人は、いとも簡単に自己を失いました。
と同時に国に対する誇りを失った。
とくに青少年を教育する学校の先生が、驚くべきことに、
知らん間に日教組の目指す社会主義革命の担い手と
なってずるずると引きずられて行ったのです。
竹葉先生は戦後の、とくに教育界の状態を痛切に憂えて
おられました。
その時、即ち三十一年九月に教育委員になって頂きたいと
知事からお話があったのです。
先生は心に深く期するところがあったのでしょう。
「私が教育委員になれば大変な混乱が起こりますが、
かまわないでしょうか」
知事が
「結構です」と。
それで先生は教育委員になることを承諾されました。
三間町の家を出られる時ご家族に
「私の命は無いものと思うように」
と言われたとか。
先生は死をする思いで松山に出られたのです。
昭和30年代、日教組と戦った竹葉秀雄氏竹葉秀雄氏の戦後教育と日教組に対する危機感が
どれほど大きいものであったか。
近藤美佐子氏の上記講演内容からもよく伝わってきますが、
さらに
竹葉秀雄氏の言葉を見て行きたいと思います。
こちらは
同志社大学大学院社会学研究科、
岩月真也氏の論文より引用させていただきます。↓
★勤評実施側から見た愛媛勤評闘争 ──日教組対策としての勤務評定の意味── 岩月真也■【勤評実施側から見た愛媛勤評闘争
──日教組対策としての勤務評定の意味──】
(同志社大学大学院社会学研究科 岩月真也)より。日本は大東亜に敗れた。
敗れた日本は、この戦争は、日本がしかけた侵略戦争だと
烙印された。
私は、亜細亜民族の解放のためにと、この戦争に全力を尽した。
その終戦の際には、詔書の再渙発を願って運動をした。
正義を踏んでは、国民一人残らず倒れてよい筈である。
日本の建国はこの精神によって出来ている。
それは、日本の滅亡でなく永遠の生であり、神の仁と義の為に
キリストの十字架を背負うことである。
…この戦の原因や功罪は、勝利者とそれへの追従者に
よってではなく、何時かは正しく審判されるであろう。
野獣の如き闘争、豚の如き貪欲、敬も恥も捨て去った国が、
その青少年に、非行を正さんと望んだとて、百年河清を俟つに
等しい。
……世の指導にあたるべき先生、将来の民族の運命を背負う
青少年の教育に一生をかけた教師が此の如くあってよいもので
あろうか。
……哀れにも教師こそ最も卑怯に、最も自己を喪失したる
のみならず、驚くべきことに何時の間にか社会主義革命の
担い手として、唯唯諾諾として率いられ訓練されていったのである。
75万の日教組は総評中の最大勢力となり、社会主義革命の
最右翼となって行った。
昭和31年9月、愛媛県の教育委員になるようにとの交渉を
うけたとき、
『私が委員になれば混乱が起るかも知れませんが、よろしいでしょうか。』
と述べて了承を得、家族の者にも
『委員をお引き受けすれば、家のことは一切忘れて事に当たりたいし,
また、自分はどのようになるかわからないが』
と念をおしてお引き受けした。
教育委員は常勤ではない。
職業をもってよいのである。
委員会の会議を開いて方針を決定し、教育長を指揮監督して,
与えられた権限に属する事務を司るのである。
然し,日本教育の現状は,これを真に正さんとすれば、
なまやさしいことではない。
日教組の偏向は極度に達し、
その勢力は熾烈を極めている。
これに逆らい触るるものすべて焼かるる勢いである。
容易なことではないのである。
非常の覚悟を要するのである。
私は『だからこそ、誰かが、何時かは、やらねばならぬこと』
と観じ、『是非の両頭を截断し、一剣天に倚って寒し」の心境に
起つべきと断じ、『莫妄想!』と決定(けつじょう)した。
「莫妄想」(まくもうそう)『莫妄想(まくもうぞう)』とは コトバンク★『莫妄想(まくもうぞう)』とは。中国唐時代の禅僧に無業禅師(760~821)の言葉。
うまくやろうとか、どうしてら勝てるとか、負けたらどうしようかとか、
そのような雑念を起こすときではない。今やるべきことに専心せよ。
勝つとか負けるとか、うまいところを見せようとか、
失敗しては困るとか、損か得かなどにとらわれて、
自己の集中心をなくすようなことではいけない。
そういう相対的欲望にとらわれることが妄想である。
妄想することなかれ。
悟りを得るためには思惟分別する心を放棄せよということ。
現在なすべきことをしっかりとすること。
★『総評』について。「日本労働組合総評議会」の略称。
戦後、GHQの保護と育成の下に再出発した日本の労働運動は、
当時の経済・社会情勢を背景に激しく、かつ政治的色彩の
濃いものとなり、 労働組合主義と世界労連の分裂なども起きた。
その結果、国際自由労連指向を原則として、
1950年(昭和25年)7月に結成されたのが、日本最大の
全国的労働組合中央組織、「総評」である。
結成時は反共色彩が強かったが、翌年の第二回大会で
平和四原則を決定するなど急速に左傾・反米化。
戦闘性をより強め、労働運動の中心的存在となった。
主な加盟組合は
自治労、日教組、国労、動労、日放労(NHK労組)などなど、
官公庁労組が中心となった。
平成元年(1989)連合の発足により解散。
■再び近藤美佐子氏の講演より。第一次勤務評定紛争
三十一年十月一日。
新しい任命制の教育委員による第一回の委員会が
開かれました。
そのときすでに勤務評定の準備は始まっていました。
と言うのは、勤務評定は去年から法律で実施することが
決まっていたのです。
教育委員会の事務局では教師の勤務評定の内容について
どうすれば公正な評定が出来るか、検討の最中でした。
勤務評定と言うのは、働いている者は当然受けなければ
なりません。
県職員であった私達も当然のこととして評定を受けました。
県警のお巡りさんも、県病院の医者もみんな受けます。
学校の先生だけではないのです。
職場での勤務ぶりを評定されることは当然で、しないほうが
おかしい。
それを小中学校の日教組だけがカーッと怒ったんです。
高等学校は日教組に属していません。
だから極めて冷静で、勤務評定も粛々と実施して
べつになんの騒動もなしに済んでおる。
ところが、日教組だけがひとりで大騒動して、
全国七十万人の組合員の力で
愛媛県教委を叩き潰してやる
とかなんとか言うて
「ナアニ、愛媛のようなちっぽけな県の教育委員会なんか
鎧袖一触、一ひねりじゃ」
とばかりに襲いかかってきたわけです。
むこうから喧嘩をしかけにやってきたわけです。
交渉という名の集団暴行
そしていよいよ十月二十日から毎日々々二百人の校長や
教員を動員して、県教委に押しかけてきて
「勤務評定をやめろ」
「団体交渉をせよ」
と大声でわめきたてました。
「勤務評定は法律で決められたことを実施するので、
交渉事項ではない、しかし評定の内容について
意見や要望があるなら聞きましょう」
と初めは大会議室で話し合うようにしましたが、
「人間が人間の評定をするのは不可能ではないか」
とか、
「校長がそんな勤務評定をやったら、組合員が校長に
諂うようになる」
とか
「学校の中がお互いの疑心暗鬼で暗くなる」
等々まことに低次元な話、そしてとどのつまりは
「勤評で教師に差をつけるのは許せない」
と、運動会で一着二着を決めるのは差別だ、
許せない、という彼ら一流のおかしな理屈を
振り回す。
中には所謂団体交渉のプロが混じっておりましてね、
そういうのが教育委員の話の言葉尻を捉えては攻め立てる。
嘲笑し、揶揄する。
やがて机を叩き、足を踏み鳴らし、怒号し、罵詈雑言、
とても話し合いなどというものではありません。
竹葉先生はこれが教師だろうか、と何度も目を疑ったと
いいます。
教師であり公務員である彼らは
闘争のために授業を休み、
交代しては毎日教育委員会に
推しかけて来て交渉を強要しました。
二百人も三百人も来ては話し合いにならない、
委員会室に入れる程度に人数を減らして貰いたいというと
人員を制限するとは非民主的だと叫ぶ。
そして委員会室にギュウギュウ詰めに押し入って、
職員の制止も聞かばこそ、ドアを蹴破ってなだれ込む。
入れない者は廊下に新聞紙を敷いて座り込む。
新館四階の廊下はギッシリの座り込みで、人も通れない。
夜になると冷えるので毛布や布団をもちこむ。
もう狼藉散乱、
目を蔽いたくなる有様です。
委員会室の中では教育委員や教育長がカンズメになり
(トイレにも何人かが監視についてくる)恐喝同様の質問や、
取るに足らない理屈をつけた抗議を際限なく聞かされ
「勤評やめろ」の繰り返し。
大体こういう「話し合い」は、連日午後三時ごろから始まって、
ナイターになり、翌朝の空が白み始めるまで続くのです。
組合のほうは交替で出てくるのですが、委員のほうは、
たまったものではありません。
真鍋さんの「勤評紛争記」のなかに、竹葉委員長蒼白になり倒れる、
という記録があります。
不眠不休の連日連夜の包囲攻撃に
委員は疲労困憊の極に達して、閉会にしようとすれば、
彼らはこの時とばかりにさらに勢いづいて
「逃げる気か、卑怯だぞ、誠意がない」
と怒号し、退場しようとすれば、集団のなかに巻き込んで
蹴り、殴り、洋服を引き裂く。
それを誰がやったかわからないようにワッショイ、ワッショイと
スクラムを組んでやるのです。
ぎっしりの人ごみですから、部屋を出ることも物理的に
不可能です。
そして
「いまに殺してやる、いやなら勤評を中止しろ」
とか
「こっちには総評もついているんだぞ、
金もいくらでも在る。
とても小さい委員会では勝てんから、
今のうちに、この文書に印を押せ」
などという者のなかには酒気を漂わせている者もいる。
そして連日
「昨日の回答はどうなった」
「この件は、明日の四時にはっきり回答せよ」
等、委員会の開催を強要するのです。
当時、家の周りの塀や電信柱に大きな鳥の子紙一杯に
「不倶戴天の仇竹葉秀雄を殺せ」
などと書きなぐってベタベタ貼ってありました。
電話戦術、電報戦術
(三十分ごとに電報が届き
家人が寝られないようにする)
などの神経戦術、恐喝、尾行、デマ、
とにかく集団暴行の限りをつくしたのです。
また、県庁の正面広場から周辺を総評の赤旗で
埋め尽くし異常な雰囲気で、そこを通って県庁に
入るのが怖いようでした。
かれらの闘争の常套手段はこちら側の発言の中から
彼らに都合のいい言葉だけを取り上げて、
つまり作文をしてそれをマスコミに流す、
誤報ですね。
それが新聞記事になる。
はじめ県教委は、教師である彼等の意見を聞こうと
考えたようですが、彼らは勤評自体に反対で勤評粉砕を
叫んでいる以上、もうこれ以上不毛の話し合いを
続けることはない、却って誤報を新聞に流されたりして、
県民を迷わせることになると、十月三十日に教組との
話し合いを打ち切り、翌十一月一日に勤務評定実施に
踏み切りました。
勤評断行
十一月一日に自治会館(今の検察庁の所)に
市町村教育長を集めて勤評実施の説明会を開きました。
するとそれをやらせまいと組合員が駆けつけてきて
会議室に押し入ろうとし、それを県職員が押し返す、
その争いが私どもの勤務室まで山鳴りのように聞こえました。
説明会が終わった夜の八時、今度は日教組の中執委や
県教組の幹部が約百名、教育委員会室に押しかけてきて、
なんで一方的に勤評実施に踏み切ったか、
「まだ話し合いはすんでないゾ」と叫び始めました。
そこで一応、教育委員会の考え方を彼らに伝えたあとは、
竹葉先生は、もうこの人達とは話はできないと、
一切口を開きませんでした。
夜の八時から翌朝の四時まで八時間、無言の行です。
県教組にしてみれば、昨日まで日教組の応援の下に
教員を連日連夜大動員して闘争したのがフイになった、
その腹立ちで、これこそ罵詈雑言、
「おまえらを発狂させることも殺すこともできる」
などと凄んでいたそうですが、お終いに
「文部省やよその県の委員とも会ったが、こんなのは始めてだ、
もうこんなの知らん」
と言って労働歌を歌いながら引き揚げたそうです。
凄まじい内容です。
これに関して、先に挙げた論文、
■【勤評実施側から見た愛媛勤評闘争
──日教組対策としての勤務評定の意味──】においても、非常に重大な部分と捉えられ、
竹葉秀雄氏の著書からの長文引用がありましたので、
内容はダブりますが、こちらも掲載したいと思います。
竹葉氏が精神的にもギリギリまで追い詰められながらも
踏みとどまり、戦っていた様子がひしひしと伝わってきます。↓数百名の教師は,(それは教師である。また公務員である。)
闘争のために授業を休み、交替しては毎日教育委員会に
押しかけて交渉を強要する。
勤務評定は交渉事項でもなく、一歩譲って話し合いとして
人員を制限すれば、ドアを壊して雪崩れこみ、委員を取り囲んで
抗議をつづける。
何故交渉事項でないのか、人員を制限するのか、から始まって,
とるに足らないことを一つ一つ取り上げて理窟をつけてくる。
机を叩き床を蹴って怒号し、恐怖心を抱かしめる。
罵詈雑言を吐き散らして聞くに堪え難からしめ,
委員の感情を昂らしめて発言を誤らしめ、
その一句を捉えて責めたてる。
委員の発言に齟齬あらしめて、一方を褒めたたえ、一方を嘲笑して
離間に導く。
甘言をもってそそのかし誘惑をかける。
スパイを入れて情報をとる。
勝手な文書を部下に流し,報道して,委員への不信感を深めて
激怒をあおる不眠不休の連日の以上のような包囲攻撃に,
委員は肉体的に疲労の極に達して(彼等は交替して休養する),
休会せんとすると,此の時とばかり,更に勢づいて
「逃げるとは卑怯だ。誠意がない」
と怒号する。
退場しようとすればスクラムを組んで集団の中に巻き込んで、
犯人がわからないように、洋服を引き裂き、足で蹴り,後からなぐる。
狭い廊下に幾百名の人垣は破って出られるようなものではない。
便所に行けばついてきて監視し、
「今に殺してやる。苦しかったら勤評を中止しろ。」
「家では皆が心配して待っているよ。
帰って休みたいだろうが、こちらの言うことを聞いたら帰してやるよ。」
「どこでもやっていないことを、自民党に圧力をかけられて
お前達も可哀想だが、日教組の力に総評も応援するのだ。
金もいくらでもあるのだ。
とても小さな委員会など勝てはしないのだ。
こちらの文書に印をつけ。」
とたたみかけて言う者の中には、酒の臭をただよわせているものも
いる。
家の近くには、壁といわず電柱といわず
「不倶戴天の敵竹葉を倒せ!」
などと貼紙し、行動を監視し、尾行をつけて、あらぬことまで
言いふらして、葉書戦術、30分毎の夜中の電報戦術によって
家族の神経を疲れせしめる。
鉢巻きして家を取り巻き、
「すぐ委員を招集して、委員会を開け。
自動車はこちらが出して委員を連れてくる。」
と息まく。
肉体・神経・精神の状態を研究しつくして、あらゆる手段をもって攻撃し、
また、持久戦で強迫観念を生じさせていらだたせる。
……このために狂し、発病し、自殺し、
廃人となったものもある。
……「人間とはこんなものでもあったのか」
と。
私は屢々人間嫌悪、自己否定の気持ちに
襲われたのであった。
私が警戒したのは、時に襲うてくる
この人間嫌悪、人間否定の感情に
参りきらないことであった。
(竹葉秀雄先生著作集刊行会 1980 : 148−149)
これらを読んで、重なるものといえば、
国会での傍若無人で異常な行動を取ってきた民主党。
民主主義の国会とは思えない国会対応をしてきた
かつての社会党や共産党。
北朝鮮拉致事件が公になってからも、
「でっち上げだ!」と完全否定し、拉致被害者家族に
暴言を浴びせ続けてきた連中。
拉致被害者ご家族が署名活動のさなかに
卵を投げつけ暴言を浴びせてきた朝鮮学校と
朝鮮総連の連中。
帰国した拉致被害者5人に対し、「一旦北に返せ!!!」
などと信じられない主張をし続けたマスコミ、コメンテーター、
政治家、文化人、知識人と呼ばれる連中。
これら日本を貶め続けてきたアカの集団、そして、
中国、朝鮮と結託し、日本国民に対して恐ろしいほどの
扇動報道をし続けてきた日本のマスコミ。
同じではないか。
何もかもが・・・。
そして、その卑怯な人間どもに、命がけで戦ってきた
多くの人達がいるのだ。
日本の子どもたちの将来を守るために。
■近藤美佐子氏の講演に戻ります。はじまりは四面楚歌
こうしていよいよ勤評が実施されました。
まず県は校長を集めて説明会を開きました。
ところが一人も来ないのであります。
当時校長は組合の役員なんかしていますから、
誰も出て来ん。
どこの会場もボイコットであります。
松山だけが四十四名の校長が全員出てきたのは
いいのですが、
「私達は勤務評定はしません」
と声明を出しただけでした。
するとPTAも「勤評反対」という。
校長と調子を合わせましてね。
マスコミも皆反対の論調であります。
労働組合は地評をはじめみんな反対、つられて、
わけもわからんのに婦人会も反対、青年団も反対、
愛大(愛媛大学)は大学人会議の先生百二十人が
声明書を出しましてね、
「勤評は教育にマイナスになる」
なんてバカなことを言って、新聞がまたそれを大きく
載せたりして、もう四面楚歌であります。
これは、新聞等のマスコミの力が大きかったと思います。
当時の新聞を見ますと、県教委を叩く記事が
メチャクチャ多い。
当時の記者というのは何がなんでも
権力のあるほうを叩いて正義面をするのが
多かった。
松山市の校長の動き
そのうち、松山市の数人の校長は「これはちょっとへんだぞ」
と思い始めたのではないでしょうか。
余りにも暴力的な組合のやり方に疑問を持ちはじめ
「自分は一校を預かる校長としての責任がある」
と思い
「それが組合員と一緒になって騒いでいていいのか」
と考え始めたのです。
県下の小中学校校長八百人の大会で松山市の校長が
組合とは別の校長会の結成を提案しました。
これは否決されましたが、この提案は十二月になって
松山市の校長二十名が組合に脱会届を出すことによって
実施されました。
これは勇気の要ることでした。
いっぽう、組合にとっては背中に冷水を浴びせられたような
気がしたことでしょう。
そのころ、社会党の国会議員はこの問題を
国会闘争に持ち込み参議院文教委員会で
審議することになりました。
勿論、勤評阻止策です。
しかしこれは見事に失敗しました。
社会党の勤評反対の論拠はコテンパンにやられてしまいました。
勤評書提出のいろいろ
県は年末から一月にかけて郡市毎に再び校長を集めて
説明会を行い、評定書の提出期限を一月二十八日としました。
今度は地教委と連携して開催したので校長は全員
出席しましたが、この説明会から校長の苦悩が
始まりました。
各地で校長は度々集まっては、評定書を出すべきかどうか、
地教委と組合の板ばさみの苦悩の日々が続きました。
なかにはしっかりした考えを持った人望のある校長が
中心となって話し合いを重ねるうちに、例えば
今治市の校長会は全員組合を脱退しようということに
なり、温泉郡は期日までに評定書提出を申し合わせるなど
提出に傾く都市が増えてきました。
尤も、温泉郡の場合、たまたま県教組の国村委員長が
こっそりソ連に旅行したのがバレまして、彼は日教組の
幹部に誘われてひそかに出かけたのですが、
組合員(校長) が血のにじむ思いで闘っている最中に
外遊とは何ごとゾ、それもソ連の次はフランスに
廻るんじゃと、許せん!となって、その頃は殆ど
校長は評定書を出すほうに傾いていたのですが、
迷っていた校長も外遊の一件でイッキにそんなら
出せ、出せということになったそうです。
今治では、ある校長先生、校長会に出かける時に
部下の組合員たちに、
「勤評は絶対出さんけん安心しとれ」
と胸を張って出かけましたが、会の空気は次第に
組合脱会に傾き、勿論評定書は提出と決まりました。
そこで学校に帰ってみると、校長室に机も椅子も無い。
はるかな運動場の真中に放り出してある。
これが市教委の課長補佐に知れて電話で
「やい、教頭はなにしよるんぞ」
と怒鳴られて飛び上がった教頭が用務員と机等を
かいて入れたので、やっと坐ることができたとか。
こういう話はまあいいのですが、なかには部下の
組合員に責められて惨憺たる思いをした先生も
おいでになったようです。
「スターリン」に押さえ込まれた周桑郡
いろいろありましたが、やはりそこは校長先生、
少し遅れても二月四日には周桑郡以外の全郡市から
勤務評定書は提出されました。
結局出さなかったのは周桑郡だけでした。
周桑郡の中学校長で「スターリン」の異名を持つ
先生がおりました。
初期の県教組委員長で、組合をバックににらみを
利かし、先輩の校長はみな追い上げて勇退させて、
若いのを組合推薦で校長にさせておる。
それで校長会で「スターリン」がおらぶと誰も
ものをよう言わん、
「スターリン」が「出すな コリャ」と言えば誰も
評定書を出さないのであります。
で、とうとう出なかった。
そうすると、日教組の小林委員長がはるばる
周桑郡までやって来て、
「諸君、ようやった。
いずれ法廷闘争になるかもしれんが、そのときは
弁護士はこちらが全部揃えて準備する。
君等の身柄は私が引き受けた」
などと言うて「闘争資金だ」と一人々々に
現ナマを渡す。
日教組の委員長というと雲の上の人のように
思っていますから、みな感激して奮い立った
とか申します。
そこで、県教委はその三十四名の周桑郡の校長を
懲戒処分にしなければなりません。
さらに四百五十名の周桑郡の先生方、これは
評定書が無いのですから給与の査定の方法が無い、
それでこの四百五十名は昇給無し。
しかし、これは二年後に救済措置をとりました。
この周桑問題が国会で大問題になりまして、
湯山さんあたりが走り回ったのでしょう、
竹葉先生や大西教育長、それに文部省の初中教育局長が
呼ばれて社会党の国会議員と喧喧諤諤の大論争を
したわけであります。
第二次勤務評定紛争
引き続き昭和三十二年度の勤務評定、
これに再び日教組が挑んできました。
これを第二次紛争といいます。
県教委は今度は早めに評定の内容等について
地教委や校長のグループの意見を聞き
充分打合せをして十月中旬に、これで行こうと
決めたところへ、文部省が
「来年から全国で勤務評定をやる」
と発表したものですから、日教組は飛び上がりました。
愛媛県だけでもこんなにあずったのに
全国でやられてはおおごとだ、その前に
愛媛を叩き潰せとに再び襲来したのです。
組合側の作戦として、去年は校長を前面に立てて
戦ったがあれは失敗した。
組合脱退者が続出して結局周桑を除いて総崩れになった。
その轍を踏まぬよう今回はいよいよ日教組みずからが
前面に出て愛媛県と戦う、と宣言し、
各県から選抜したオルグの精鋭百五十人を引き連れ、
それに総評傘下組合の猛者百五十人が助っ人として
加わり、併せて三百人の共闘本部を組織して十月二十一日に
まさに台風のように嵐を捲いて乗り込んできました。
県教委は
「今年の勤務評定は校長や地教委の意向も充分
汲み入れて既に決定済みであり、もういまさら
あなた方と話し合うことはない」
と、合うことを拒否しました。
すると新聞は、遠来の客に対し県教委は
横暴じゃと書きたてる。
そこで遠来の客達は、県庁の周りに赤旗を林立させ、
共闘本部のテントを立てて座り込みをやり、
街宣マイクでおらびたてて、まず県の用度課の職員と
小競り合いの乱闘をやり、怪我人がでたとかで
地評の三人が引っ張られていきました。
すると記者がバッタのように飛び跳ねて取材をして、
翌日の新聞に大袈裟な写真入りの記事を書く。
新聞などは騒ぎは極力大きくなれかしと
願っているみたいです。
十月二十七日。
松山の木屋町の国鉄グラウンド、今はどうなっているか
存じませんが、あそこで九千人の勤評反対総決起大会を
やりました。
愛媛の組合の先生たちはバス四十台を連ねて参加し、
全国各県の日教組の組合員、それに総評が加わって
九千人が大会を開き勤評反対の気勢を挙げて、
市内に繰り出しました。
県庁前や大街道でプラカードを担いで鉢巻しめて
「わっしょい、わっしょい」というてジグザグ行進をする。
それを見て松山市民は
「あれが先生かや」
とちょっとシラけたのであります。
現在の、
「即脱原発!!」
「特定秘密保護法反対!!」
「集団的自衛権行使容認反対!!」
「ヘイトスピーチ反対!!」
と、がなりたてている連中の狂った行動と酷似していますね。↓
★5月末の福島県いわき市での「反原発デモ」の主催者は中核派とその仲間。日本を「日帝」と呼ぶ連中です。★塩村都議の野次問題が日本人への「言論弾圧」と「性差別者」という「レッテル貼り」に繋がることをどうか知って下さい。【オルグ (社会運動)】
オルグとは、団体が組織拡大のために、
人を勧誘して構成員にすることを指す。
過去において、この言葉そのものは、いわゆる
既成左翼の世界で主に使われていたが、
現在ではさまざまな組織一般で用いられている。
選挙前の後援会員勧誘活動などもオルグ活動との
呼び名で定着している。
戦闘開始「校長を監視せよ!」
このとき既に勤務評定は実施の段階に入っており、
書類も校長先生や関係機関に送付済みで、
校長が評定書を地教委経由で県に提出する期限は
十一月九日と決められていました。
闘争本部は
「十一月四日から九日は天王山ぞ、組合員は全員
学校に泊り込め!
校長が評定書を出さないように厳重に監視せよ!
校長の自宅にも見張りを立てよ!
万一提出された場合は地教委を相手に奪還闘争をせよ!」
と指令を出して、今度は、県外から来たオルグや
総評の連中が先頭に立って容赦なしの激しさで
どんどん闘争を進めて行きました。
特に総評は、この際、先生たちの聖職者意識を
剥ぎ取って労働者としての階級意識を持たせねば
ならんとハリキッて愛媛の先生たちを叱咤激励しました。
評定書封印事件(今治)
例えば今治、ここは校長は全員組合を脱退しており、
評定書も早めに市教委に提出済みでした。
それを知った組合は市内外の数百名の教員を
日吉中学校に集め、今治の二十三校の校長を
引っ張ってきて講堂の壇上に並ばせて
夜明けまでつるし上げをやりました。
その余りの激しさ無慙さに女の先生達は泣き出したと
言います。
ついで評定書を取戻せと、市の教育委員を集めて
ムリヤリ委員会を開かせ
(委員達は脅されて身の危険を感じたよし)
評定書の奪還を迫りました。
結局市教委は、県には提出しない、組合にも渡さん、
市の金庫のなかに封印しておくということで、
一応切り抜けました。
その後、市はひそかに各校長にもう一通評定書を
書いてもらってそれを県に提出したそうです。
宿屋は大騒動(小田町)
また小田町、上浮穴郡の静かな山間の町です。
ここの七人の校長が、郡の校長会で決めた以上、
評定書は絶対提出するわけにいかんというのを、
町の教育長が一人ずつ説得、これは時間が
かかるので夕方から、ふじやという宿屋で
行なわれました。
教育長の熱心な説得にやがて一人また一人と陥落して、
出しましょワイ、となると教育長は大喜びで
「おおそうかや、そんなら必ず出すということの
しるしに、ここに名前書いて判コ押してや」
とやったのが松山の闘争本部の井上書記長の
耳にはいった。
「ナニ!誓約書かかした?」
と、彼は直ちに十人ほど手下をつれて真夜中に
タクシーでわ―っと小田町の宿屋に押しかけました。
余談ですが、当時は、自家用車なんかありませんから、
みんなタクシーです。
タクシーなんかをふんだんに使った。
例えば津島町の戸島に嘉島という小中学校があります。
そこの校長が評定書を出したという情報が入ると
五十人ほどの組合幹部がソレッと特船を仕立てて
その学校へ行く。
そして、
「なんで出したんゾ」
と夜の八時から夜明けまで校長室で責めたてた。
この校長さんは偉い校長で
「これはわしの信念じゃ」
とつっぱね通したので、
(オルグは)「これはもうどうにもならん」
と言うて夜明けにまた船で帰ったそうです。
というように特船であれタクシーであれ使い放題で
あったと言います。
また道後の旅館は労組の幹部や各県のオルグで
満杯、夜毎の宴会でこれは大いに儲かったという
噂でありました。
さて、上浮穴郡の組合のほうには
「小田町が出すぞ、それを止めろ」
と指令が飛んで、郡内の百五十人ほどが
ふじや旅館に押しかけ、井上書記長やオルグは
ガンガン抗議=吊るし上げをやり、組合員は
宿屋の二階でどんどん暴れたので、天井が
落ちると宿屋の主人は青くなりました。
ここで愛媛県の地図を載せておきます。
こちらは「平成の大合併」前の地図です。↓
愛媛県は、東予、中予、南予、と分かれていますが、
1999年から2010年までに行われた
市町村の「平成の大合併」により、
講演の中で出てきた
「小田町」は現在、
中予の「喜多郡内子町」、
次に出てくる
「竹葉氏の故郷」でも有る
「三間町」は現在、
南予の
「宇和島市」となっています。
住民意識の変化
この騒動で注目すべきは一般住民の意識です。
宿屋での騒動の後、小田町の校長先生たちは
前言を翻して再び提出拒否の側に回ったので、
町教委は再度校長との話し合いをもち、その席に
各校のPTA会長にオブザーバーとして来て貰った。
そのときのPTAの発言の一、二を挙げます。
「勤評が悪法なら改正するよう努力するのが本筋です。
しかし改正は合法的手段でやってほしい。
私は今の勤評の法律は遵守すべきものと思っています」
「勤評の内容が不備だから提出できんというが、
日教組の団結が壊れるから提出できんというのが
本音のように思われる」
「先生方は、昇給した先生と昇給しなかった先生に対して
子供の信頼感がどうのこうのと言うけれども、子供は
毎日先生を評定しています。
月給の多寡によっては子供の信頼は
つなげません。
もしも先生方が子供の目をそれほど甘く見くびって
おいでなさるのなら問題は大きいと思います」
かつてのPTAは学校の先生の指示どおりに動いて
いましたが、勤評騒動の有様をみているうちに
山の住民もこれは…と思い始めたようであります。
権力のイヌ論争(三間町の紛争)
三間町では四人の校長が相談して評定書を町教委に
提出すると同時に組合に脱退届を出しました。
その情報が折から宇和島の明倫小学校で
勤評反対南予総決起大会をやっているところへ
届いたものですから、ソレッ三間がやられた、
とばかりに大会そのものがダ―ッと三間町に
移動しました。
大会参加者は貸切りバスやタクシーで次から次へと
三間の鬼北中学校に乗りつけたのです。
村の人はこんなにようけの自動車は見たことが無い。
びっくり仰天して警戒のために消防が出たといいます。
このときのことを、当時の鬼北中学校長の
米田兼光先生はこう書いておられます。
とにかく団体交渉、つるし上げが二た晩続きました。
第一日の晩は徹夜でやって、夜が明けると
組合員の先生たちは授業があるので、それぞれの
学校に帰る。
そして夕方の五時ごろからまた大勢集まってくる。
それが町内だけじゃない、他の町村からも、
郡外からも次々集まって来てまた徹夜のつるしあげに
参加する。
その吊るし上げの終わり方に、闘争委員が
「お前ら四人はなぜ組合の指令に反して評定書
を出したか、言うてみい」
というので私はこう言いました。
「君たちは我々四人を権力の犬だと罵った。
この言葉はそっくり諸君にお返しする。
何となれば今や教育界における最大の権力者は
まぎれも無く日教組である。
この真夜中にこれほど大勢の、しかも町内だけでは
なしに町外からも郡外からも、日教組の指令一つで
何百人もの教師が集まる。
これは大変な力である。
この日教組の力の前には、県教委のそれは
ものの数ではない。
その証左に県教委の実施する勤評の紛争を叫ぶ
日教組に対しては忠実にその指令一本でかくも
多数の組合員諸子が夜中に参集しているではないか。
県教委の指示は歯牙にもかけぬが、絶大な権力を
持つ日教組の指令には唯々諾々として盲従しているのが
諸子である。
我々はその日教組と闘っているのだ。
諸子等こそ権力に阿る犬と言わずして
何と言おうか」
挑戦ともいうべき私の言葉に、当然反論の叫びが
挙がると予期していたが、以外にも、満堂シュンとして
しばし声が無かった、と。
猛烈な阻止活動のなかで
その後、オルグの攻撃はさらにひどくなり、
八幡浜市、東宇和郡、新居浜、川之江、三島、宇摩郡等では
校長が集まって評定書提出の相談をしての帰途、
組合員に襲われ、拉致されて警察に
助けを求めると言う事件が、
あっちでもこっちでも頻発しました。
愛媛の先生(組合員)たちは、日教組や総評のオルグに
命令されて激しく締め付けられながら、日頃よく知っている
地教委の職員や校長を敵に回して戦わざるを得ない
日々のなかで次第に、オルグたちいわば県外から来た
赤の他人にムリヤリやらされているという気分になって
行ったようです。
また、>こうしてオルグの連中に引っ掻き回されて、
愛媛の教育が破壊されていいのか、と思い始めた者も
いました。
それで、教頭の中にも組合脱退の動きが出はじめました。
評定書提出は、猛烈な阻止活動の嵐のなかで、
校長の迷いと決断の間を縫って少しずつ増えていきました。
提出期限の十一月九日には三割が提出、
県教委は再び提出期限を十二月十日に延期し、
業務命令として提出を厳命しました。
勤評闘争大詰め
新聞には連日、提出した学校名と数が、たとえば
十一月何日、何時現在、提出校何校で何%、
未提出校何%と報道されるのです。
最終期限の十二月十日が近づくとラジオやテレビは
刻々と選挙の開票速報よろしく報道するのですから、
迷っている校長先生は針の筵に坐らされている思いが
した事でしょう。
いよいよ最終締め切りの十二月十日午後四時、
提出した学校数は四百六十三校(六〇・四%)。
依然三百校は未提出、いやその大半はオルグ等に
押さえ込まれていたのでしょう。
やむなく県教委はこれらの校長の処分を
検討し始めました。
すると知事と自民党が
「去年周桑の三十余人の処分で国会までが大騒ぎをした。
三百人の処分は前代未聞」
と仲裁に入り、結果
「あと四日待とう、十二月十四日を最後の提出日とする」
と決めたのです。
この瞬間に未提出の校長たちはガタッときました。
この二ヶ月間、オルグに激しく叱咤激励されながら
持ちこたえてきたが、再三にわたる期限延長で、
もはや精も根も尽き果てた校長たちは、
あと四日、と聞いた瞬間にガタガタッと崩れました。
もうこれ以上一日も一時間も一分も頑張れない、
もう勘弁してくれ!
校長達は組合の阻止を振り切るようにして
更に百校近くが提出、そして組合脱退者が
イッキに増えはじめました。
終 焉
組織の危機、これ以上闘争を強行すれば
県教組は崩壊するぞと緊急戦術会議が開かれました。
日教組の委員長はじめ幹部は全員松山に詰めて
いましたし、社会党も浅沼稲次郎書記長ほか党幹部が
大勢来て直ちに秘密会議、これ以上勤評闘争を
続けるかどうかで、県教組はヤメたといい県外の連中は
続けろで、怒号乱れ飛ぶ徹夜の議論でもまだ決まらず
翌日もエンエン九時間の論争で全員朦朧となって
ようやく、いったん全校勤務評定書を提出して
事態の収拾を計ろうということになりました。
完全な敗北であります。
十二月十四日似は県下の全小中学校七百六十七校の
評定書がそろいました。
その翌日の十二月十五日、日教組の小林委員長は、
誰一人見送る者も無い国鉄松山駅から、
たった一人で汽車に乗って帰るのを、読売の記者が
見つけて
「日教組の委員長、一人淋しく去る」
と言う見出しの記事を書いておりました。
「愛媛のようなちっぽけな県の教育委員会など
ひとひねりだ!」
と嘲笑しながら息巻いていた日教組は
こうして、愛媛県全県下の粘りに屈したのです。上の地図を見れば判るように愛媛県は決して
「ちっぽけ」などという言葉で括られるような県では
ありません。
勿論他の県も同じですが、
自治体をこのように
小馬鹿にし、ねじ伏せてやる、という意識は、
先日記事でも取り上げた、滋賀県知事となった
元民主党の三日月大造が関与した
民主党政権時代の
『国土交通省「箇所付け」漏洩事件』のマインドと
全く同じだと感じます。↓
★滋賀県知事となった三日月大造は民主党鳩山政権時代の憲法違反「箇所付け漏洩事件」の実行者!口蹄疫で苦しむ宮崎も見捨てた元国交大臣政務官!国民は事実を知るべきだ!愛媛の教育を守ったのは、
地元の気概のある教育者であった。地域の子供は地域が育て守る。そのことを改めて見る思いがします。
■近藤美佐子氏の講演の最終章です、↓おわりに
いったい日教組は愛媛県に何をしに来たのでしょうか。
日教組六十余人の中央執行委員のうち四十七人を
松山に派遣し、各府県からのオルグ、延べ
二千四百七十人を投入して連日連夜県下全域を
走り回らせ、闘争資金として本部や総評傘下の
労組からのお金を合わせて二億とも五億とも
言われるお金を(当時ハガキは五円でした)
消費しただけでなく、結果として、県教組から
組合員の殆どが逃げ出し、愛媛の組合はボロボロに
崩壊して見るかげもなくなりました。
いったい日教組はなにをしにきたのでしょうか?
竹葉先生の「ジュネーブ行」に次の一節があります。
―――天は私に幸をもたらしたと言うべきか。
県教組・日教組の勤評反対闘争は激烈を極め、
地評、総評まで加わり、県会・国会の政治闘争にまで
発展し、まさに天下を二分する戦いとなった。
が、これによって父兄や一般の人達は、
日教組が如何なるものか、その本性を始めて知って
愕然とし、また各地に義挙の旗が立って、この戦いは
全国的となった。
日本教育の正常化は未だ出来上がらず、その前途は
未だ遠いけれども、その曙光が見え始めたのは、
この勤務評定によってであり、もしこれ無かりせば、
日本教育の正常化は更に困難であり日時を要した
ことと思う。
その意味で確かに神助であった。
―――と。
竹葉先生は勤評のことは
「あれは済んだことだ」
と余り話したがらなかったのですが、たまに、
こんなふうに言われました。
「あれは、鋤で土をひっくり返したようなもので、
本当の教育はこれから始まる。
土をこなして、種をまいて、水や肥料をやり、
そして大輪の花を咲かせねばならない。
そのなかで一番大切なことは、この日本が
どんなに美しい国か、それを教えることだ。
そして一人一人がどんなにすばらしい輝きを
持っておるか、それを更に輝かせるような教育を
しなければならない。
そのような愛媛のすばらしい教育がいずれ
花開く時が来る」
と。
これで終わりにします。
(以上)
今まで日本は、止むに止まれぬ思いで、また、
居てもたってもいられず、竹葉氏らのように
行動を起こしてくれた方達によって
危機を乗り越えてきたのだと思います。
この愛媛県でも「勤評闘争」によって、
「愛媛県教組」はどうなったのか、先に挙げた
論文、
■【勤評実施側から見た愛媛勤評闘争
──日教組対策としての勤務評定の意味──】を読みますと、
多くの教師、管理職教員が組合を脱退し、組合員数は激減。
日教組加盟の愛媛県教組は実質的に解体に追い込まれた
ということです。
■【勤評実施側から見た愛媛勤評闘争 ──日教組対策としての勤務評定の意味──】吉田茂内閣時代後半から政府の重要政策の一つとして
掲げられてきた教育改革。
その最も喫緊の課題は、教育の場において
強力な力を占め、「総評の御三家」といわれた
「日教組」という共産主義組織を潰すことでした。
「勤務評定」の最大の目的は、まさしく
その「日教組解体」でもあったわけです。
愛媛県教組の組合員数を減少させたという点では
勤評実施側の日教組対策は成功したといえる。
しかし、この「勤評」は現場の教師たちが
勤務評定(評価)それ自体は容認していたものの、
勤務評定(評価)によって昇給差(賃金差)を
生じさせることだけは容認することはなく、
結局、全面的な支持は得られずに形骸化して
しまったということです。
一つの事象で全てがうまくいく、なんてことは
なかなかありません。
しかし「最大の目的」に対して成果を得られたことは
事実です。
そして日教組が、村山富市の社会党が筆頭の政権を
取ってからも文部省と連携し、「ゆとり」などの異常な教育に
深く関わってきたことは、国民の判断も残念ながら
関わってしまっています。
そして勿論そこにはマスコミの偏向扇動報道も
深く関わってきます。
最後に、同じく、上記論文より、
竹葉秀雄氏が指摘した「勤評闘争の3つの原因」、
「無知」、「無勇」、「日教組」についての竹葉氏の言葉を
紹介します。↓
■「無知」について。上部組織から流れてくる書類情報のみを信じて,
他を知ろうとしない。
識者の正論も保守政党に利用されたものだと教えられ、
そう信じている。
そして文部省や教委の言うこと為すこと悉く悪意を以って
歪曲されて報道されるのをそのまゝ信じる。
若い有望な青年教師,美しい感情を持った女の先生たちが、
これはと驚くような誤った事を信じているし、また煽動されて
運動の第一線に立っているのを見て、惜しくてならない。
……純真なる無知はおそろしい。
生命を燃やして飛び込んでゆくその情熱が、
悪魔の笑いの渦まく冷酷無惨な
その革命に利用されるのである。
■「無勇」について。なかには分かっている人達も居る。
憤りを感じている人もいる。
然し執拗な彼等の圧迫が怖いのである。
信じるところを語れば集団暴力で叩かれ日陰に
追いやられる。
家族を持つ夫として親として一人でこれに抗し悲運に
耐えることは中々出来ることではない。
然し人間性を尊重し教育の尊厳を護るために、
勇気を望んでやまないのである。
■「日教組」について。こゝからすべては起きてくるのである。
計画され、利用され、操られ、煽動され、
無知ならしめられ、無勇ならしめられる、
すべてがこゝから発せられるのである。
……私は県教育委員になったのは『この力』に
蹂躙されている教育界を何とかしたいためであった。
……任命を受けるや否や勤評問題で直ちに
『この力』と取り組んでしまったのである。
幸いに各委員の心の統一が出来、教育長に
その人を得、事務局、地教委の一致協力と
識者の支持を得て、一年余の戦いの後、ようやく
勤務評定問題だけは一応の解決を見た。
然し『その力』が抜け切ったのではない。
『その力』はそんなに根の浅いものではない。
……日教組が如何なるものかを見極め、
その戦いを体験していたゞきたい。
その時初めて真の憂いと憤りが湧き、
人類の名に於て断じて許されないものであることが
知られるであろう。
北朝鮮拉致事件が何故、ずっと「でっち上げ」や
「なかったこと」になってしまっていたのか。
何故今以って解決されぬままであるのか。
それは全てが竹葉氏が指摘していることと
繋がっていくのだ・・。
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