★7月27日:表題を
『大分県教組の「反日洗脳ツアー」。
この異常な日教組と戦ってきた政治家、そして教育者たちの
存在を知っておきたい。【その1】』
から
『大分県教組の「反日洗脳ツアー」。
この異常な日教組と、かつて「勤評闘争」で戦った
愛媛県の地元教育者たちの存在を知っておきたい。【その1】』
に変更しました。昨日、シンクロのメダリスト、「奥野史子」のことを書きました。↓
★たとえ「メダリスト」でも、心ない卑怯な人間は糾弾されるべき。奥野史子を久しぶりに見て麻生政権の頃を思い出した・・。麻生政権時、公共の電波を使った、非常に影響力の
強い「テレビ」という場で、散々「イジメの手本」を
晒し続けてきた人間が、今現在も、その2009年当時と
同じように、マスコミの扇動に加担し、「イジメの手本」を
見せ続けている。
奥野史子の
「イジメの手本」の最大の問題点。
真面目にコツコツ頑張っている人を小馬鹿にする。
嘲笑する。このことが最も重大な問題点だと思っています。
これは民主党の議員と同じなのです。
そして浅田真央選手も同じことをされていた。
韓国とマスコミに。↓
★浅田選手が巻き込まれたもの。その恐ろしい現実を為末氏はしっかり見るべきだ。★浅田真央選手が巻き込まれた「大きな闇」を決して「綺麗事」の言葉だけで覆い隠してはいけない!「陰湿なイジメ」
「精神的リンチ」
こういうものに繋がるのです。
そして、もう一つは、子どもたちの人格形成に
多大な影響を与えることも憂慮しなくてはいけないと
思います。
奥野史子のような行為は何をもたらすのか。
いくつか上げてみます。
■どんなことに対しても「しらける」ことが先にくるような
雰囲気を助長させる。
■何かを率先して行おうとする人たちを攻撃する。
■新しいことを懸命に考え、それをなんとか進めていこうと
頑張る人たちに対して、まともな批評、論評をせずに
一方的に全否定する。
■新しいことが実施され、それがうまく進んでいった時、
それまでさんざん文句ばかり言ってたにも拘らず
まるで何事もなかったかのように、また自分も賛同者で
あったかのような態度を取り、酷い時には自分も
功労者の1人であるかのような顔をする
■団体行動において、それに反発することが
「自分らしさを通す」こととしてもてはやされることが
助長される。
■団体行動において自分の都合のいいように
勝手解釈する。 実は、これらは自分自身、中高時代に目の当たりに
してきたことでもあります。
生徒が内容を考えて進めていく学校行事で、
こういうことを経験しました。
自分は「進める側」にいて、行事を準備する間、
さんざん嫌味を言われました。
勿論、私だけでなく、行事準備に携わった
他の生徒たちの多くが、いつもこんなことを
言われました。
「こんなものを準備したってウケるはずがない。」
「ちっとも面白く無い。」
「自分たちの自己満足。」
「どうせ失敗する。」
「バカバカしい。」
放課後の冷たい視線と冷笑、嘲笑・・。
クラスで内容を決めるときも、出された意見に対して
ことごとく、「そんなの、アホらしい」と一笑に付し、
かと言って代案も全く出さない。
最後まで何の協力もすることなく、ただただ文句ばかり
垂れて、一生懸命練習していた同級生たちを
嘲り笑ってた人たち。
毎日練習して、アイデアを出し合って、笑いも取れるよう、
なんとかかんとか皆で頑張って仕上げをしていって、
いざ行事の当日。
全校生徒から爆笑を誘いながら、成功し、
皆で「良かったね」と喜び合って終わった一日。
そうしてクラスの出し物が成功に終わったあと、
まるで自分たちの手柄のように、掌返しに
偉そうにする人たち。
労いの言葉も、ゴメンの言葉もなく。
もし上手く行ってなかったら、恐らく文句ばかり、
いや、以前よもり陰湿なイジメの対象になって
いたかもしれない。
民主党がやっていたこともとても似ているんです。
麻生政権での「エコポイントやエコカー減税」など、
散々バカにしていながら、政権を取ったあとも
継続していましたよね。
まるで自分たちの手柄のように振る舞いながら。
あれだけ
小馬鹿にし、
嘲笑をしていながら。
奥野史子がテレビでやってることも同じです。
前の記事で紹介した通り、奥野史子は同志社の
大学院で、
政策科学を専攻している。
ということは、政治のことを何も分からずに麻生政権を
批判していたのではなく、
確信犯的にマスコミと同調し、
民主党政権の誕生に加担したと私は思っています。
民主党は、今更言うまでもなく
「売国党」です。
その中身を簡単にいえば、
「旧社会党の巣窟」&「自民の売国落ちこぼれ」。日教組の親玉「輿石東」、日教組幹部の「神本美恵子」や
那谷屋正義など、日本の教育を腐らせた連中のいる
民主党を、奥野史子は支持しているも同じです。
その
奥野史子が京都市の教育委員会の委員を
務めていることは
極めて重大な問題だと思います。
今週、その日教組の中でも山梨と並ぶくらいに
影響力の強い
大分県教職員組合が、
「慰安婦反日ツアー」なるものを
募集していたことが明らかになりました。
自民党の義家弘介参院議員も、facebookで
産経の記事を取りあげていますが(上のツイートでの
リンク先です。)、もう一つ、韓国の朝鮮日報も、
このことを記事で取り上げていましたので、
その異常な
「韓国視点」から見てみます。↓
慰安婦:大分県教組の韓国ツアーに日本政府が「待った」 ツアー内容に慰安婦歴史館見学 朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 2014/07/23 【慰安婦:大分県教組の韓国ツアーに日本政府が「待った」
ツアー内容に慰安婦歴史館見学】
(朝鮮日報日本語版 2014/07/23)
大分県教職員組合が主管する
「親子で学ぶ韓国平和の旅」と題するツアーに、
「日本軍『慰安婦』歴史館」を見学する日程が
含まれていることをめぐり、極右勢力が
「反日ツアー」だとして攻勢を強めている。
大分県教職員組合はこれまで
「日本の(侵略期の)加害行為を正しく認識し、平和を模索する」
という趣旨で中学生とその保護者を募集し、
韓国ツアーを12回実施してきた。
27-28日にも60人が同ツアーで来韓する予定だ。
スケジュールには、旧日本軍による慰安婦強制動員の
実態を伝える展示施設や、植民地時代に独立運動家たちが
投獄されていた西大門刑務所の訪問が含まれている。
このツアーをめぐり、日本の極右勢力は教職員組合に
電話をかけ「反日ツアー」「慰安婦ツアー」などと
強く非難している。
慰安婦問題は捏造(ねつぞう)だと主張する産経新聞も加勢し、
22日付紙面で「教職員組合が慰安婦ツアーに助成金を出した」
と非難した。
大分県教組は
「親子で行く旅行なのだから、一方的に反日・自虐史観を
植え付ける旅行にはなり得ない。
実際に目で見て判断しようという趣旨」
と説明した。
日本政府も、教職員組合が旅行業法に基づく登録を
受けずに参加者を募集したことについて、違法との
立場を示した。
これは極めて異例のことだ。
また、修学旅行ではない一種の企画ツアーであるにも
かかわらず極右勢力が集中的に非難しているのは、
大分県教組が日本の侵略史を批判する
歴史教育を重点的に行ってきたからだ。
大分県教組は2001年、日本戦犯裁判や南京大虐殺を
載せた「平和カレンダー」を教室に掲げたほか、
日本の侵略の歴史を正当化する中学校用歴史・公民教科書の
採択に反対する新聞広告を出した。
教員の研修用資料にも
「国民主権と天皇制は矛盾している」
「日本国歌の君が代は、侵略期の思想統制に使われていた」
という内容が盛り込まれた。
大分県教組は極右勢力にとって「目の上のたんこぶ」的な
存在だが、教員の加入率は60%に達し、日本でも有数の
「日教組(日本教職員組合)王国」と呼ばれる。
日本では最近、日教組への加入率が25%にまで
低下している(原文ママ)。
大分県教組の関係者は
「正しい歴史を知ろうという教育に不満を抱く極右勢力が
難癖をつけている。
大分は日本の植民地支配について謝罪した村山談話を
発表した村山富市元首相などリベラル系の政治家を
多数輩出しており、良心勢力の活動が活発だ」
と語った。
東京=車学峰(チャ・ハクポン)記者
しかし、よくもまぁ、
>実際に目で見て判断しようという趣旨
などと、取ってつけたような言い訳を
恥ずかしげもなく言えるものですね。
さすが日教組だわ。そして、大分県選出の自民党の礒崎陽輔参院議員の
twitterより。↓
新聞広告をアップしますと・・・。↓

はっきりと言ってしまえば、
「日教組洗脳ツアー」です。
しかし、こうしてネットでは問題化されているものの、
果たして現実的に見て、
「日本教職員組合」が
どれだけ日本の教育にとって癌であるのかということを知っている人というのは、もしかしたら
思った以上に少ないのではないかと思ってしまいます。
麻生政権の時、職場の同僚に民主党の恐ろしさを
伝えようと、「日教組」という言葉を出したのですが、
「えっ!?日教組が繋がってるの!?」というような
驚きの反応は全くなくて、「ふ~ん」という、あっさりした
反応だったんですよね。
そのときに、「日教組」という言葉は聞いたことが
あっても、実際は子供が居ても特に関心を持たない
のかもしれないと思いました。
安倍総理が第一次安倍政権の時に
「教育基本法」の改正を行いました。
当時、猛烈な反対を食らって、残念ながら「愛国心」という
言葉は組み込めなかったけれど、「愛国心」を育てる教育を
重視することや、ゆとり教育の廃止を決定づけてくれました。
教科書が分厚くなったのは安倍政権のお陰ですが、
そんなことも殆どの親は知らないまま。安倍さんをひたすら応援してきた私はといえば、
我が子が2人とも「ゆとり世代」に組み込まれ、
虚しさはあるけれど、とにかく「ゆとり教育」が
終わってよかったと思います。
(「円周率3」だとか「総合的学習」だとかの授業を
参観した時には、もう完全に子どもたちは国に
見捨てられた、と思いましたね。
しかし、「ゆとり世代」で括られ、何かといえば
馬鹿にされる子たちも、大人の選んだ都合で
組み込まれただけでハッキリ言えば子どもたちの
せいではないのですよね。)
同じく
安倍さんが手がけたのが、2007年6月に
改正された「教育職員免許法」。主な変更点である教員免許更新制は、これまで
一度取得したら無期限で有効だった教員免許に
原則10年の有効期限を設け、期限がくる前に
大学などが開設する30時間の免許状更新講習を受講し、
修了しなければ免許が失効するという制度です。これはまさしく選挙活動な含むイデオロギー活動に
授業放ったらかしでうつつを抜かしていた
日教組の
教員ら「不適格教員」を排除するために施行された
改正法でした。
安倍さんがマスコミの猛烈なバッシングを受けた
第一次政権の1年間での実績の中でも、もっとも重要な
法改正の1つだったわけですが、安倍さんよりも更に前の、
今から60年近く前、同じく日教組と戦った人たちが
いたことをご存知でしょうか?
それは、
愛媛県で起こった「勤務評定闘争」です。
愛媛県は昔から保守王国であり、教育にも熱心な県で、
大学も私立より国公立へと進む傾向が非常に高い県でした。
その愛媛県が日教組と戦った「勤務評定闘争」について、
見て行きたいと思います。
今回は、まず
日教組の背景と、
そもそも日教組とはどんな組織なのかを
ハッキリと多くの人に知ってもらえたらと思います。↓
★愛媛の教育改革はここから始まった【愛媛の教育改革はここから始まった。
~昭和30年代初頭の勤務評定紛争を振り返って~】
愛媛県師友会「ひの会」
会長 近藤美佐子
平成14年8月、愛媛県教育委員会は、
翌15年春開校の県立中高一貫校における
「新しい歴史教科書」の使用を決定、
公立一般中学校としては、全国初の採択となった。
愛媛県教育委員会の全国に先駆けた教育改革の
取り組みには前史があった。
昭和30年代初頭、勤務評定紛争で
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった日教組と全面対決し、
これを撃退したのである。
当時、教育委員長として日教組と闘い抜いた竹葉秀雄氏に
師事し、県庁職員として勤務していた近藤美佐子先生に
当時を振り返っていただいた。
なお、本稿は、平成14年11月に行われた講演
(愛媛県教科書改善連絡協議会主催)をまとめて
いただいたものである。
★ここで、先に竹葉秀雄氏についてご紹介。↓
『立・極・垂・統』【竹葉秀雄氏 プロフィール】
愛媛県北宇和郡三間町宮野下
(現宇和島市三間町宮野下)に誕生、
明治35~昭和51年(1902~1976)、
名誉町民、愛媛県教育委員長
愛媛県師範学校を卒業後、教員在職中に
国学者安岡正篤に感銘を受け、東京の金鶏学院で学ぶ。
昭和3年(1926)から自宅を開放し「三間村塾」を創設、
郷土の数多くの子弟を育てた。
塾生は大陸各地からも参加し、南予の僻村で
国境、民族を越えた交流も行われていた。
不出生の名横綱双葉山とも親交が厚く、
双葉山は二度も「三間村塾」を訪れている。
昭和19年(1944)に三間村長に就任後、
昭和26年(1951)には愛媛県社会教育委員となり、
県公安委員を経て昭和31年(1956)県教育委員。
昭和44年(1969)までの12年余り在任した。
教育委員長在任中猛烈な反対を押し切って、
教職員の勤務評定を全国に先駆けて導入した
信念の人として英名を馳せた。
愛媛県教育文化賞・愛媛県功労賞・勲四等瑞宝章を受章。
昭和51年(1976)三間町名誉町民となった。
(三間町発行 三間町誌編纂委員会編集『三間町誌』 第十編「人物」より)
昭和30年代、日教組と戦った竹葉秀雄氏再び「近藤美佐子」氏の講演会より
「日教組」を改めて見てみたいと思います。↓
今年の夏は皆様方の大変なご活動によりまして、
愛媛県教育委員会は全国に先駆けて
扶桑社の歴史教科書を採択するという快挙を
成し遂げました。
誠にご同慶の至りでございます。
今から四十五年前、愛媛県教育委員会は
これまた全国に先駆けまして教育の正常化ヘの道を
拓きました。
当時猖獗を極めておりました日教組、
その日教組の御三家のひとつと言われていた
強力な愛媛県教員組合を、ほとんど壊滅せしめて
教育正常化へと進んだのであります。
今から半世紀近くも前のことでございますので、
私も当時の新聞をひっくり返して見たり、
また当時の県教育委員会や文部省などの文書、
なかには極秘・マル秘の文書もいくつかございましたが、
それらが大きなダンボール箱にほとんど一杯ありますのに
目を通したり、また県の教育委員長であった竹葉秀雄先生の
当時の日記や、県の教育次長の真鍋さんの書かれた
「愛媛勤評紛争史」、「戦後十年の愛媛教育史」などにも
一応目を通しました。
こうして少し記憶を確かに致しまして、これからお話を
するわけでありますが、はじめに日教組につきまして
ちょっと触れておきたいと思います。
占領下に生まれた鬼っ子 日教組
昭和二十年八月、日本が戦争に負けまして、
アメリカが日本を占領致しました。
そのアメリカ占領軍が真っ先にやったことは、
共産党の徳田球一などの政治犯三千人を
刑務所から開放することでありました。
そして占領軍は日本民主化の名のもとに、
盛んに労働運動を奨励したのであります。
全国で一番始めに学校の先生の組合を
結成したのは京都府でした。
それからはまさに燎原の火のように物凄いスピードで、
全都道府県に教師のいわゆる労働組合が
次々と結成されてゆきました。
その組合の四分の一は社会党系、
四分の三は共産党系でありました。
愛媛県の教員組合は共産党系で、
昭和二十一年七月に結成されております。
アメリカは占領当初は、共産党の活動が
盛んになることをむしろ歓迎したのであります。
そして労働組合の活動を奨励しましたので、
全国のいたるところで労働争議が頻発しました。
その集大成といいますか、帰結が、ご記憶の方も
おいでになるかと思いますが2・1ストであります。
昭和二十二年二月一日を期して、吉田内閣打倒を
目標に、国鉄労組、全逓信、日教組、
この三つの組織が中心となって全官公労
二百七十万人のゼネストを立ち上げていった
わけです。
これが実施されれば、まずお米をはじめあらゆる物資の
流通が止まります。
通信もストップしてすべての情報が遮断される。
ちょっと考えただけでも、食うや食わずで
敗戦のどん底に喘いでいた日本は大混乱になり、
革命へと雪崩れ込むのは必至と思われました。
こうなると占領軍もほうってはおけません。
いよいよストに突入するという前日、即ち
一月三十一日の午後五時に、まさに瀬戸際で
マッカーサー総司令部は、ストップをかけて
ストをねじ伏せたのです。
こうしてストが中止されましたので、その代償として、
いたるところで労働協約が結ばれました。
愛媛県では県と教員組合が労働協約を結んでおります。
その一部を申し上げますと、まず、県が採用した教員、
学校の先生ですね、これは一人残らず否応なしに
組合員になると定められました。
ですから組合はなんの苦労も無しに全県下の教師を
組合員として掌握することができるようになった。
それから、教員の給与や人事、これらすべてを県は
組合の意向を聞いて決めなければならない等々、
その他いろいろございますが、この労働協約に
よりまして、県組合が教育行政の中に
深く入りこんできたわけであります。
教員の政治活動
昭和二十三年に教育委員会が置かれました。
これも進駐軍の命令であります。
全国の都道府県・市町村に置かれましたが、
これはアメリカ占領の置き土産ですね。
日本人が産み出したものではなくて、つまり
貰い物なので、いつまでたっても本物としての
力が出ない。
去年の歴史教科書の採択でも教育委員が
いかに弱いか、全国三千余の教育委員会で、
どこかが扶桑社の教科書に手を挙げかけたのですが、
少し脅かされると直ぐひっこめましたね。
極めて弱い。
まだまだ借り物であります。
この教育委員会でありますが、当初は委員を
選挙で選出することになっていました。
すると教組は組合の役員を立候補させて、
先生方が走り回って運動して高得点で
当選させる。
選挙のあとで教育委員会を開催してみると、
委員会と組合の役員会が同じような顔ぶれ
だったなどという話もあります。
これで教組は教育行政を牛耳り、
選挙運動のノウハウを身につけた
わけです。
次に参議院議員の選挙がありました、
全県一区。非常に強力な自民党の議員を抑えて
社会党が当選しました。
これも教員組合が走り回った。
その二年後に知事選がありました。
保守のレッキとした筋の通った政治家に対して
社会党も候補を押し立てて、これも学校の先生が
走り回って激戦の末、社会党の知事を実現させました。
選挙の後で学校の先生七千人か八千人が
一斉に一号給月給が上がったのであります。
そういうことで、選挙の後は、先生の組合は
飛ぶ鳥を落とす勢いだったと思います。
組合の幹部なんかは県庁の中を肩風切って
歩いているという感じでした。
当時、私は児童福祉の仕事をしていました。
五月五日の子どもの日には、県民会館に
子供を集めて子供大会をするのですが、
市内の各小学校長にいろいろお願いを
しなければなりません。
そういうときに教育委員会に行くと
計画書を出せの、申請書を出せのと手間がかかる、
その点、持田の教育会館に陣取っている県教組に
行けば、話は速いのであります。
持田にゆくと三好文化部長なんかがふんぞり返って
座っておる。
威張りたくて仕方が無い、といった風情です。
そこで
「三好先生、五月五日に子供を五千人県民館に
集めたいのですが、あの日は休みだけど
学校の先生に付いて来て貰いたいの。
どうかしら」
「OK」
と言えば、もう書類もハンコもいらない。
当日になると、五千人の子供がちゃんと先生に
引率されて集まってくる。
県教組の威力をつくづく感じさせられましたが、
というのは非常に強いという感じを持っておりました。
日教組の正体
はじめは学校の先生たちも、それほど日教組を
恐るべき危険な団体だとは思ってなかったようです。
校長先生をはじめ全員が組合員ですし、
県に採用されればそのまま自動的に組合員に
なるのですから。
むしろ組合は日本民主化の旗印を掲げている
進歩的な良い団体だと思いこんでいた先生が
多かったのではないでしょうか。
それに自分達の身分を保証してくれるのは
どうやら組合に違いないと思い違いをしている
先生も大分おいでになったようで、組合に逆らう
ことなど夢にも考えない、そういうひとが多かったと
思います。
ところが、その組合を包括する全国組織、日教組は
「丹頂鶴」と言われました。

組織のずーっと上層部は真っ赤なんであります。
つまり共産党の闘争委員長の岩間正男なんかが
日教組の上層組織にガッと食い込んでおる。
共産党にしてみれば、学校の先生の組合くらい
頼りになるものはない。
というのは学校の先生は全国の津々浦々、
山の中にも島の果てにも配置され組織化されておる。
しかもそれぞれの地域の父兄と深い繋がりを
持っておる。
そして次の世代の青少年を育てる職業なんであります。
この教員の組合、七十万人の日教組、
これを赤く染めれば居ながらにして日本は
革命できるのであります。
また、その赤く染めるのを一所懸命に手伝ったのが
大学の教授であり文化人でありました。
左翼のね。
なかでも特に熱心だった六十余名は日教組の
お抱え講師団に雇われて小中学校の教員の
思想教育に全国を飛び回りました。
またそのなかの数人が一所懸命に考えて作ったのが、
「教師の倫理綱領」であります。
これは日教組の先生たちの「教典」と言われました。
御承知の方もおいでになると思いますが、
書いてあることは、まず、
「教師は労働者である」。
「団結こそ教師の最高の倫理であって、
共産主義社会を実現することが
教師に課せられた歴史的使命である」。
なんて書いてある。
そして、
「青少年はそういう社会を実現するための
働き手として組織され、教育されねばならない」。
つまり
「学校教育は共産主義社会をつくるための
戦闘員を養成すること」
だというのであります。
これを書いたのは、柳田謙十郎、宗像誠也、宮原誠一、
周郷博、清水幾太郎等々とまあ錚々たる左翼の学者たちで
あります。
当時の日教組のいろいろな資料を見ておりますとね、
彼らがあこがれる理想の国は、ソ連、中国、北朝鮮で
あります。
ソ連は分解して無くなってしまいましたが、よりによって、
この三つの国こそわれわれの手本・理想郷だと書いてある。
そして日本はぼろくそです。
国歌は歌うな、国旗は引き摺り下ろせ、
あの「愛国心は戦争につながる」
というアホな言葉は、その当時からの合言葉であります。
こういう学者にしろ、それに躍らされた多くの先生方にしろ、
こういう人たちは要するに日本のことを本当に
知らなかったのではないかと思います。
明治の開国で、鎖国の扉を開けてみて西洋文明に
魂消た(たまげた)日本人は、朝野を挙げて
追いつけ追い越せに忙しくて、子供達に日本のことを
じっくり教えなかった。
この、日本の本質的なことをちゃんと教えないという
傾向は、明治の学制を初めとして大正、昭和と
一世紀にわたって続きました。
(大東亜戦争に負けてからはとくに酷い)
それで、日本をほんとうに知らない日本人が
育ってしまった。
高学歴の者ほど日本のことを知らない。
そういう言わば自分を知らない日本人が、
ギリシャ文明について語り、ローマ帝国の興亡を
喋々し、カントがどうの、ヘーゲルがこうの、
マルクスはあゝのと言って、それで学者として
罷り通っておるのであります。
日教組という組織がどういったものなのか。
手に取るように分かる内容だと思います。
北朝鮮のチュチェ思想に傾倒するのも
当然なのでしょう。
★日本教職員チュチェ思想研究会全国連絡協議会 WIKI【参考】★日本教職員チュチェ思想研究会 総連中央を訪問 [朝鮮新報 2006.9.12]【日本教職員チュチェ思想研究会 総連中央を訪問】
(朝鮮新報 2006.9.12)
日本教職員チュチェ思想研究会全国連絡協議会の
清野和彦会長一行が8日、総連中央会館を訪問した。
総連中央の徐萬述議長が国際局の徐忠彦局長とともに
一行を出迎え歓談した。
教職同中央の李庠雨副委員長が同席した。
徐議長は長い間、朝・日の2国間における教育活動家らの
交流と民族教育を支援する活動を力強く推進してきた
日本教職員チュチェ思想研究会役員らを激励した。
清野会長は現在の2国間をとりまく政治状況は厳しいが、
日朝友好親善と日朝国交正常化実現に向けて努力を
惜しまずに精進していきたいと述べた。
徐議長は、同連絡協議会の主催で行われる
「日朝友好親善を深めるための第30回全国交流集会」に
送られてきた朝鮮対外文化連絡協会名義の祝旗を伝達した。
売国そのもの・・・。
しかし、さらに読んで思ったのは、やはり
「教科書」のこと。
日本史の教科書は、日教組の希望する通りの教科書だったなと。
「労働運動がどうのこうの」。
「蟹工船がどうのこうの」。
「反政府主義者」や
「無政府主義者」が英雄視され、
「日本は悪」を摺りこんでいく内容でした。
まさしく
「学校教育は共産主義社会をつくるための
戦闘員を養成すること」にふさわしい内容であるのが
日本の歴史教科書であると。
次回は、日教組と竹葉秀雄氏との戦いについて
お伝えしたいと思います。
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