国籍の重み
- 2012/05/10
- 03:33
猫ひろしの五輪出場がなくなった。
良かったの一言。
日本国籍は先人の真っ当な行いがあってこそ、世界中から信頼され、
日本のパスポートを持てば、それだけで「信頼」を得ることが出来るほど。
その重い「日本国籍」というものを簡単に捨てるという考えの浅はかさに呆れる。
国籍というものは、たとえば日本丸という船に乗った集団であり、
何かあったときはその中で覚悟を持って「一心同体」となる。
母国の国籍を捨て、他の国の国籍を得るということは、すなわち、
何かあったとき、その得た国籍の国の人間として、
母国と戦うことにもなるのだ。
それだけ国籍というものには重い意味がある。
ラジオか何かの番組で、『売れるタレントにする方法」の一つとして、
「カンボジア人になって五輪狙い」が上り、それにタレントが便乗した。
タレント本人は、マラソンに熱中したが、それだけで、
五輪の切符を得る資格などあるはずもない。
レベルの高い日本の代表は最初から無理だからレベルの低い国を狙う。
しかも、五輪出場の標準記録に満たない国でも、少しでも
五輪参加の未来を開くために「設けられていた「特例枠」。
その枠を狙った。
カネも動いたと見られること。
全てが汚い・・。
日本に目を向けて見れば・・、
マラソン選手は山ほどいて、実業団の恵まれた中で練習してきた選手以外にも、
公務員ランナーも頑張っていた。
彼は、五輪出場のモチベーションについて、
日の丸を背負って、日本人でもここまでできるんだというのを見せたい、と言っていた。
女子水泳の荻原選手。
引退後、結婚。再び五輪への道を願い、再スタート。
自衛隊のプールを借りて練習。そのプールには日の丸が壁に張られてあり、
日々、その日の丸を見ながら練習をしてきたそうだ。
そして、五輪への思いは日の丸を背負うこと、そして、もう一度日の丸を
ポールに掲げること、それが最大のモチベーションになったそうだ。
私たちは日本人だ。日本という国が母国だ。
海外で何かあったとき、保護してくれるのは日本大使館。日本国だ。
東日本大震災が起こった時、胸が苦しくなった。涙が出た。
東北の人たち、どうかどうか生きてくださいと願った。
みな、東北に誰も親戚がいなくても、心配し、いてもたってもいられなかった。
同じ日本人だからだ。
台湾の人たちは、膨大な義援金を寄せてくれた。
GDPやら人口比から見れば、本当に驚くような数字だそうだ。
台湾の人たちとは、かつて、同じ日本人として一緒に50年を共にした。
「植民地」ではなく、同じ日本人として、同じ教育を受け、同じ社会で生きてきたのだ。
その時代があったからこそ、台湾の人たちは日本を信頼し、
日本を好きでいてくれる。
奴隷でも、搾取でもない。真っ当な社会を共に築き、支えあってきた。
だからこそ「絆」がずっと生きている。
台湾の人たちは、「恩義」を知っている。もしかしたら、今の日本人よりも。
あの50年を知る台湾のおじいさんおばあさんたちが、
「日本は素晴らしいよ」とずっと伝えてきてくれているのだ。
後の世代の人たちがそれを受け継いでくれている。
台湾は一つの国となった。自立した国だ。
日本という国、台湾という国。尊敬し、信頼し合える国。
そういう国を大切にしなければならない。
少し話が逸れたが、「国家」というものを日本人は余りにも軽く見すぎている。
国家がなかったら、自分の存在すら難しい。
日本という国家があってこそ、私たちは今の恵まれた社会生活の中で
過ごすことができる。
日本という国家が破綻したり、よその国に搾取されたり奴隷国家に
なってしまえば、もう、今の生活など成り立たない。そもそも法治国家でなくなる。
簡単に言えば、信号のない無法道路を暴走車が走り、
簡単に車にはねられてひき逃げされ死ぬ。
その後も、何台もの車に轢かれても体はそのまま放置され、
道路上で、野犬に食い尽くされ、そのまま白骨化する。
無法状態、国家がなくなるとはこういうことだ。
猫ひろしが国籍をとったカンボジア。
ポルポト政権下で長い間、国民は苦しめられ、大虐殺が行われていたのは
ついこの間の出来事だ。
クメールルージュ・・。この恐ろしい響きを猫はまさか知らないのではないだろうか。
カンボジアは、ポルポトが死んで、ようやく、本当にようやく、
落ち着いてきたのだ。
UNTACが実施したカンボジアでの初めての総選挙で、
選挙監視員として現地に入っていた
日本人大学生の中田厚仁さんや警察官の高田晴行さんが殺害されたことを、
猫ひろしは知っているのだろうか。
この事件が起こったのは、1993年。まだ20年にも満たないのだ。
そんなカンボジアのさほど遠くない「歴史」を知っていれば、何とか平和を取り戻し、
これから若い人たちが希望を持って前へ進むことが出来る時代を迎えることが出来、
五輪出場も自力で出来るまでに力をこれから更につけて行きたい、そんな思いで、
進んでいこうとしていることを考えれば、「特例枠」を突然、先進国の人間が
スライド的に横取りしようなどと考えることが如何に卑怯であるか、
如何に意地汚い考えでしかないのか、理解できるはずだ.
日本人は「恥を知る」国民だし、卑怯なまねをすることを最も嫌う。
猫ひろしは、自分の欲望のためだけに、日本国籍を意図も簡単に捨て、
カンボジア国籍をとった。カンボジア国民の哀しい歴史に思いを馳せることせぬままに。
カンボジア人になったからには、カンボジア内部で、何かが起こったとき
逃げずに戦わなければいけない。
まだまだ、不安定要素はある。
中国という国がアジアにはある。共産主義は恐ろしい。
賄賂の横行だって多い。いつ、どんな方法で国がひっくり返るかわからないのだ。
カンボジア人としての覚悟があるならいい。
だけど、彼はロクにカンボジアにいない。
日本という安全地帯にずっといるのだ。卑怯としか言いようがない。
カンボジア人として骨を埋める覚悟でやらないのであれば、
カンボジア人を侮辱したことになる。
国籍とはそれほどに重いものだ。
良かったの一言。
日本国籍は先人の真っ当な行いがあってこそ、世界中から信頼され、
日本のパスポートを持てば、それだけで「信頼」を得ることが出来るほど。
その重い「日本国籍」というものを簡単に捨てるという考えの浅はかさに呆れる。
国籍というものは、たとえば日本丸という船に乗った集団であり、
何かあったときはその中で覚悟を持って「一心同体」となる。
母国の国籍を捨て、他の国の国籍を得るということは、すなわち、
何かあったとき、その得た国籍の国の人間として、
母国と戦うことにもなるのだ。
それだけ国籍というものには重い意味がある。
ラジオか何かの番組で、『売れるタレントにする方法」の一つとして、
「カンボジア人になって五輪狙い」が上り、それにタレントが便乗した。
タレント本人は、マラソンに熱中したが、それだけで、
五輪の切符を得る資格などあるはずもない。
レベルの高い日本の代表は最初から無理だからレベルの低い国を狙う。
しかも、五輪出場の標準記録に満たない国でも、少しでも
五輪参加の未来を開くために「設けられていた「特例枠」。
その枠を狙った。
カネも動いたと見られること。
全てが汚い・・。
日本に目を向けて見れば・・、
マラソン選手は山ほどいて、実業団の恵まれた中で練習してきた選手以外にも、
公務員ランナーも頑張っていた。
彼は、五輪出場のモチベーションについて、
日の丸を背負って、日本人でもここまでできるんだというのを見せたい、と言っていた。
女子水泳の荻原選手。
引退後、結婚。再び五輪への道を願い、再スタート。
自衛隊のプールを借りて練習。そのプールには日の丸が壁に張られてあり、
日々、その日の丸を見ながら練習をしてきたそうだ。
そして、五輪への思いは日の丸を背負うこと、そして、もう一度日の丸を
ポールに掲げること、それが最大のモチベーションになったそうだ。
私たちは日本人だ。日本という国が母国だ。
海外で何かあったとき、保護してくれるのは日本大使館。日本国だ。
東日本大震災が起こった時、胸が苦しくなった。涙が出た。
東北の人たち、どうかどうか生きてくださいと願った。
みな、東北に誰も親戚がいなくても、心配し、いてもたってもいられなかった。
同じ日本人だからだ。
台湾の人たちは、膨大な義援金を寄せてくれた。
GDPやら人口比から見れば、本当に驚くような数字だそうだ。
台湾の人たちとは、かつて、同じ日本人として一緒に50年を共にした。
「植民地」ではなく、同じ日本人として、同じ教育を受け、同じ社会で生きてきたのだ。
その時代があったからこそ、台湾の人たちは日本を信頼し、
日本を好きでいてくれる。
奴隷でも、搾取でもない。真っ当な社会を共に築き、支えあってきた。
だからこそ「絆」がずっと生きている。
台湾の人たちは、「恩義」を知っている。もしかしたら、今の日本人よりも。
あの50年を知る台湾のおじいさんおばあさんたちが、
「日本は素晴らしいよ」とずっと伝えてきてくれているのだ。
後の世代の人たちがそれを受け継いでくれている。
台湾は一つの国となった。自立した国だ。
日本という国、台湾という国。尊敬し、信頼し合える国。
そういう国を大切にしなければならない。
少し話が逸れたが、「国家」というものを日本人は余りにも軽く見すぎている。
国家がなかったら、自分の存在すら難しい。
日本という国家があってこそ、私たちは今の恵まれた社会生活の中で
過ごすことができる。
日本という国家が破綻したり、よその国に搾取されたり奴隷国家に
なってしまえば、もう、今の生活など成り立たない。そもそも法治国家でなくなる。
簡単に言えば、信号のない無法道路を暴走車が走り、
簡単に車にはねられてひき逃げされ死ぬ。
その後も、何台もの車に轢かれても体はそのまま放置され、
道路上で、野犬に食い尽くされ、そのまま白骨化する。
無法状態、国家がなくなるとはこういうことだ。
猫ひろしが国籍をとったカンボジア。
ポルポト政権下で長い間、国民は苦しめられ、大虐殺が行われていたのは
ついこの間の出来事だ。
クメールルージュ・・。この恐ろしい響きを猫はまさか知らないのではないだろうか。
カンボジアは、ポルポトが死んで、ようやく、本当にようやく、
落ち着いてきたのだ。
UNTACが実施したカンボジアでの初めての総選挙で、
選挙監視員として現地に入っていた
日本人大学生の中田厚仁さんや警察官の高田晴行さんが殺害されたことを、
猫ひろしは知っているのだろうか。
この事件が起こったのは、1993年。まだ20年にも満たないのだ。
そんなカンボジアのさほど遠くない「歴史」を知っていれば、何とか平和を取り戻し、
これから若い人たちが希望を持って前へ進むことが出来る時代を迎えることが出来、
五輪出場も自力で出来るまでに力をこれから更につけて行きたい、そんな思いで、
進んでいこうとしていることを考えれば、「特例枠」を突然、先進国の人間が
スライド的に横取りしようなどと考えることが如何に卑怯であるか、
如何に意地汚い考えでしかないのか、理解できるはずだ.
日本人は「恥を知る」国民だし、卑怯なまねをすることを最も嫌う。
猫ひろしは、自分の欲望のためだけに、日本国籍を意図も簡単に捨て、
カンボジア国籍をとった。カンボジア国民の哀しい歴史に思いを馳せることせぬままに。
カンボジア人になったからには、カンボジア内部で、何かが起こったとき
逃げずに戦わなければいけない。
まだまだ、不安定要素はある。
中国という国がアジアにはある。共産主義は恐ろしい。
賄賂の横行だって多い。いつ、どんな方法で国がひっくり返るかわからないのだ。
カンボジア人としての覚悟があるならいい。
だけど、彼はロクにカンボジアにいない。
日本という安全地帯にずっといるのだ。卑怯としか言いようがない。
カンボジア人として骨を埋める覚悟でやらないのであれば、
カンボジア人を侮辱したことになる。
国籍とはそれほどに重いものだ。