今朝、TBSの「朝ズバ」で、柏市の通り魔殺人事件の犯人の
「社会が悪い」云々の供述について、
毎日新聞の論説委員様で
あられます
与良正男大先生が、
「何でも社会のせいだ、国のせいだ、と言われてしまうのは、
僕達マスコミにも責任がある」などと
今更の殊勝なお言葉を述べられました。
与良大先生、そうですよ、そのとおりでございますよ。
何でもかんでも日本社会のせい、日本国家のせい、と
報道で煽りまくってきたマスコミは罪深いです。
あんた方がずっとやってきたことは、
日本をとにかく貶めること。
それに尽きました。ですから、
どうか、TBSも毎日新聞も、今までやって
きたこと、そして今もやってることを全部ぶちまけて、
謝罪して、放送免許剥奪、解体してくださいよ。マスコミがやってることは、「世直し」でも何でもない。
「正義の味方」なんてとんでもない。「日本毀損」。
ただこれだけですから。■昔、大竹しのぶ主演で「あゝ野麦峠」という映画がありました。
山本薩夫監督、1979年公開の映画です。テレビでも何回か流れたので、ご存じの方も結構いらっしゃると
思います。
私もテレビでこの映画を観ました。
★この映画について、3年前に「ねずさんのひとりごと」ブログの
コメント欄で書かせていただいたものを今回再掲したいと思います。
※コメント欄のため省略した引用部分などの追加もしました。元ブログ記事はこちらです。↓
【義に生きる 山田方谷 ねずさんのひとりごと 2011年01月22日】
>なにやら百姓は、繰り返し一揆を起こして、
代官所を襲って米蔵を奪い、商家を襲って
金品や財物を奪って娘を強姦して暴れていたなどと、
わけのわからない貧農史観が最近の日本ではまかり通って
いる。・・・
「百姓一揆」という言葉を歴史の授業で聞くたび、
なんとなくピンとこなかったのは、このせいかなと思います。
昔、『あゝ野麦峠』という映画を見ました。
大竹しのぶが主演でした。
飛騨の若い女性が過酷な労働環境の製糸工場に無理矢理行かされ、
「富国強兵」のもと必死に働く。
その過酷な労働のために病に侵され、工場側は冷酷に放り出す
ように女工を捨てる。
迎えに来た兄に背負われ野麦峠を下っていく。
『ああ飛騨が見える』と言いながら、二十歳の若さで死んでいく
主人公・・。
工場側の人間は全て悪。
国の、いわば「軍国主義政策」に押し潰された飛騨の
若い女性たち。
暗い・・、とにかく暗い・・。
これが映画のイメージです。
思えばコレも左翼的歴史史観じゃなかったのだろうかと思い、
ネットで調べてみました。
映画の主人公「みねさん」は実在の人物で
「百円工女」として優秀な働き手だったそうですが、
「百円工女」というのは、当時、家1軒を建てられる程の
高収入を得ていた工女の事なのだそうです。
確かにみねさんは若くして亡くなったので不幸でしたが、
彼女は「糸取工女」になる事によって高収入を得て親孝行する
事もできた。
映画での「辛くて悲しい」イメージが余りに強く、
また「女工哀史」という言葉で、より「悲惨な女性たち」として
語られているようですが、又違う観点もあるようです。↓
【女工哀史だの野麦峠なんかみるとひでえなと思いますが、
あれって本当なんですか? Yahoo!知恵袋】
【以前に岐阜新聞に出ていた記事内容 『 野麦峠を越えた女たち 』 より】
※岐阜新聞(リンク切れ)→ juliana.fc2web.com/05.juli17hida.html
===============
しかし大勢の糸引きを輩出した飛騨地方では、
「糸引き」が「かわいそう」の代名詞ではない。
高齢化が進み、数少なくなった糸引き経験者たちからは、
惨めさどころか、糸引きであることに胸を張る証言が多い。
同市久々野町小屋名の岩本あきさん(93)は、
大正から昭和初めにかけて、長野県の岡谷の製糸工場へ
出稼ぎに行った糸引き経験者。
13歳から8年間勤め、うち3年間は野麦峠を歩いて超えた。
「家から野麦まで1日、工場までは(途中汽車に乗って)
2日掛かった。
着物をはぐって腰巻きして、頭は桃割れでな、わらじを
履いて越したよ」
岩本さんは農家に生まれ、6人兄弟で育った。
親類の紹介で出稼ぎに行くことが決まり、最初は不安で
泣いた。
仕事は厳しかったが、1年間に現金五百円を稼ぐ優秀な
糸引きとして周囲から羨ましがられた。
農村では当時、現金収入が無く、岩本さんは家の暮らしを
随分助けた。
「給料を親に渡すと、神棚に飾って喜んでいた。
成績の良しあしで給料が決まるから神経使うけど、
毎年綺麗な反物を貰えたし、勤続5年で鏡台を貰った。
集落の同い年では、持っとる者がおらんほど高価な
もんやった。
今でも大事にしているよ」
同市朝日町青屋の平田やよさん(90)は、昭和初めに
高山市の製糸工場を辞め、わざわざ信州へ行った。
「周りの友達が皆糸引きになって、反物を貰っていた。
私もけなるうて(羨ましくて)連れて行ってくれと
頼んだ。
親からは反対されたけどな」
9月の故郷の祭り見たさに友達と工場を抜け出し、
野麦峠を越えて帰ってきたスリル満点の冒険談もしてくれた。
「糸引きに行って良かったなー。
嫁に来てからの方が貧しくてよっぽど大変。
ご飯が食えんで、ササの実(野麦)を団子にして食べたよ」
時代が違うのかもしれない。
しかしこれらの証言もまた、糸引きの真実に違いない。
「女工哀史」に代表される、つらく厳しかった
面ばかりがことさら世の中に強調されてきた
飛騨の女性史。
新・高山市がスタートした今年、市内の野麦峠を越えた
飛騨の女性達の、強く、明るく、前向きに生きた足跡を
紹介する。
高山市千鳥町、飛騨・世界生活文化センターは、飛騨の女性史を
テーマにした企画展「ひだの青春 姉さまたちの132年」
(岐阜新聞・岐阜放送共催)を16日に開幕。
初日午後1時30分から、シンポジウム「野麦峠を越えた女性たち」を
開く。
企画展は9月31日まで。
==============
昔と今とでは農業も含めて労働内容も違うため比較できないし、
一概に生糸工場だけが厳しいというわけではなかったこと。
また、女工さんは「技術者」でもあったこと。
それを考慮せず、「女工哀史」の名のもとに重労働、低賃金、
奴隷的扱いをされたという事を殊更強調されるのは、
やはりサヨクの歴史観が蔓延っているせいだと感じます。
今の中学生の教科書にも「野麦峠」は載っています。
思えば「日本の労働環境は昔から劣悪」というイメージが
刷り込まれているように思います。
中学生の歴史教科書を見れば、
いかに、その方向からの記述が多いか、
いかに「弾圧された共産主義者」をやたら持ち上げ、
「共産主義礼賛」で書かれているか。
民主党と癒着している官公労、自治労、日教組。
これらの組合の現在の存在は、こうした歴史教育の中で
より強固になってしまったのだと思います。
真面目な日本人が疲れたとき、彼らは甘い言葉をかけ、
「懸命に働く事など馬鹿らしい」「あなたはもっと楽になる」
と暗示をかけてきた。
「疲れたのは社会のせいだ!、国のせいだ!」と
洗脳する。
それが結果として菅直人のような「ただの扇動家」を総理に
してしまった。
2011/01/22(土) 19:14 | URL | 共通一次世代
>企画展「ひだの青春 姉さまたちの132年」ここで取り上げた岐阜新聞の記事は
、2005年のものです。
2005年は「愛・地球博」という愛知万博が行われ、
その期間中にあった企画展が万博終了後、再び高山市内で
開かれたようです。
【自主企画展「ひだの青春-姉(ね)さまたちの132年-」
EXPO 2005 AICHI,JAPAN】また、明治時代のお給金についてはこちらを参照してください。↓
【明治人の俸給】★この自分のコメント文は、ねずさんブログ記事の本文でも
取り上げて頂き、そのお陰で、多くの、とても興味深い
関連コメントも読むことが出来ました。↓【野麦峠と戦後左翼の欺瞞 ねずさんのひとりごと 2011年01月27日】諏訪湖のほとりに片倉館という温泉があるそうです。
以前新幹線の「トランヴェール?」という冊子で知りました。
そこは当時女工たちのために建てられた保養所だったそうです。
美しい保養所です。
2011/01/27(木) 08:30 | URL | ざりがに
先人の努力を無駄にしない
私が小学生、中学生の時期を通じて養蚕をしていましたので
本日の記事を嬉しく読みました。
当時父は家業が傾いてしまったことから、
福井県のダム工事に出稼ぎに行っており、
盆正月しか帰らない状況で、家に残った母が
女手だけで原金収入が得られるようにと始めた養蚕でした
いざはじめて見ると大変な重労働でした。
特に蚕が成長すると食べる桑の葉は幾何級数的に増えます。
私も小学校高学年から中学にかけては、家に帰るとまずは
桑畑に行き、桑の木から枝ごと切り出してはリヤカーに積みこみ
蚕に与える毎日でした。
繭になり出荷しても生活費に消えて行き、決して我が家が
豊かになることは有りませんでしたが、
少なくとも父の出稼ぎと母の養蚕のお陰で今日の私が居ます。
製糸工場は、この繭から生糸を紡ぐ工場であり、
多くの若い女性が従事し、家族の生活を支え、
本人の希望を支えたのだと知ることは、私個人としても
嬉しいことですが、当時まだ子供であった私ですが
日本の産業の一端を担っていたことを知ることは大いなる喜びです。
また、数年前に福井県福井市が大洪水に見舞われたことが
ありましたが、この時に人身被害は有りませんでした。
このことを当時の福井市市長さんは、○○○ダムのお陰で
人身被害を出さずに済んだと父が工事に従事したダムの名を
上げて下さいました。
私は、この時にも父がほとんど家に居ないことを
淋しく思っておりましたが、数十年して
その思いのつかえが取れました。
本日のテーマと少し外れますが、その時その時に日本が
必要とする産業の担い手として多くの国民が
努力を重ねて来ました。
私達はその成果の上に暮らしています。
そのことに感謝し、発展させ、改善していく努力を積み重ね
先人の努力を無駄にしないようにしなければと思いを新たにして
おります。
2011/01/27(木) 10:48 | URL | 基準点
私は1年の殆どを着物で過ごしていまして、
染織りの仕事もしておりますので、今日の記事はとても
興味深かったです。
知り合いに秩父銘仙でかつての銘仙を復刻させようとしている方が
いまして、その方が女工さんについて調べてみたところ...
当時は家内制手工業に毛が生えた程度なので、あんな立派な工場は
なかった。
あっても、その当時は、余所様の娘さんを預かるのだからと
大事にした。
女工さんがお嫁に行くときは、着物を入れたタンスを
持たせた。
宿舎の窓に鉄格子がある写真があるが、
あれは夜ばいから女の子を守るため。
だったのだそうで、
野麦峠などは作者が売り上げを延ばす為に
悲惨に書いたのだとか。
私の地元の昔造り酒屋さんだったお家の方が、
最近になって蔵の中のものを整理しようと、物色してみると、
何十年も前の従業員の布団が出て来たそうです。
その当時は従業員も、同じ屋根の下で暮らしてたそうで、
で、その布団なんですが、家族の布団はあちこちボロボロで
つぎはぎだらけなのに、従業員の布団は正絹のシーツ(?)で
とても綺麗で・・・
昔の商売人は従業員を大切にしてたのです。
2011/01/27(木) 13:00 | URL | 羊の森
★コメントに出てくる
「秩父銘仙」についてはこちら。↓
【秩父銘仙の歴史】「秩父銘仙(めいせん)」は、崇神天皇の御代に
知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが
起源と言われています。
その後、「秩父銘仙」は伝統を受け継がれつつも
高品質なものへと改良を重ね、 明治中期から昭和初期にかけて
最盛期を迎えます。
絹織物の「秩父銘仙」は、平織りで裏表がないのが特徴で、
表が色あせても裏を使って 仕立て直しができる利点があります。
女性の間で手軽なおしゃれ着として明治後期から昭和初期にかけて
全国的な人気を誇るようになりました。
特に独特のほぐし模様が人気を博したといわれています。
当時は養蚕業などを含めると市民の約七割が織物関係の仕事に
かかわっていたと言われています。
まさに秩父地域の基幹産業であったわけです。
今でも、昔ながらの技は受け継がれており、
和服・ざぶとん・小物などが、秩父のお土産品としてたいへん好評です。
なんでしょうかね この書き方
今手元に祖母?が買った「あゝ野麦峠 -ある製糸工女哀史-」
があります。
昭和43年10月10日発行 著者 山本茂実 発行者朝日新聞社 定価480円。
内容は聞き書きが多く、最後の方にはデータが多く載っています。
明治100年記念で出版したいと思って出したとの事。
記録としては優れたものだと思いますが、やはり著者は、
女工が可哀想より、明治以降の日本という国家はとんでもない軍国主義で
国民を騙し破滅に導いた国家であると思っていたようです。
最後のところを記します。
---引用---
シルクの美しさはまさに平和のシンボルであったはず、
しかるにその日本のシルクの周囲には明治以来いつも
宿命のように死の影がただよい、血なまぐさい硝煙の
匂いが立ちこめていた。
(略)
それはやがて空前絶後の巨艦大和を建造せざるを得ない宿命につながり
(略)
莫大な金を「変態的に特殊化された企業の奴隷」になって
かき集めざるを得なかった。
2011/01/27(木) 16:19 | URL | 八目山人
★これらのコメントを読んで私もコメントを書きました。↓羊の森さんの
>宿舎の窓に鉄格子がある写真があるが、
あれは夜ばいから女の子を 守るため。
これが映画になると、
「鉄格子は逃亡防止のため。
火事の時にこの鉄格子に阻まれて逃げ場を失い、
女工たちが焼死してしまう」
という描写になってしまうわけですね。
ざりがにさんが教えてくださった『片倉館』、きれいですね。↓
【片倉館について】
昭和2年8月に、主人公の働く「山一林組」で実際に労働争議が
あったそうですが、一方では、「片倉組」のように、福利厚生に
力を入れていて、工女が働きたいと希望する会社もあったのですよね。
【『女子工員の補修授業』
※補足説明: 製糸工場には専属の教師もいて、裁縫、家事、修身、国語、
編物、刺繍、生花、手芸などの補修授業が行われました。】
(『岡谷蚕糸博物館・岡谷インターネット美術館』より)
↑ここでの写真を順番に見て頂ければ解るとおり、
製糸会社が共同出資して作られた
「平野製糸共同病院(現岡谷病院)」があったり、
製糸工場合同の運動会があったり、
また、岡谷で産業が発展したお陰で
「諏訪蚕糸学校(現岡谷工業高校)」ができたり
したわけです。
仕事はたしかに今の時代から見れば「きつい仕事」だった
というのが現実的にあるとは思いますが、決して、
映画のように「何もかもが絶望的なもの」
ではなかったのです。
映画では、「工場での湯気」と[画面の暗さ」が
いかにも健康を損ねるようにジメジメと描かれていて、
「結核が蔓延し、主人公も結核で死んだ」ようになっていますが、
みねさんは実は結核ではなく、腹膜炎で亡くなった
そうです。
また、木綿工場では、その毛羽によって結核になりやすかったけれど、
絹糸を製造する工場ではそういうことはなく、
「紡績」という言葉で一括りになってしまっているのと、
映画でイメージが固定してしまったようです。
蚕は、桑葉から摂った豊富な養分を、体内で「絹」と言う
素晴らしい「タンパク質」に創りかえる事ができる「凄い昆虫」だそうで、
繭は蚕が蛹になる際に、フィブロインという繊維状のタンパク質を、
セリシンという水溶性のタンパク質でくっつけながら吐糸することによって
形作られていますが、そのセリシンには、約18種類もの
上質のアミノ酸が含まれているそうです。
群馬県の富岡製糸場内の売店では『製糸場クッキー』というのが
あって、蚕の繭をそのまま粉末にしたシルクパウダーが入っているそうです。
このセリシンは人間の肌にはとてもいいそうで、
製糸従事者には手荒れが少ないそうです。
糸を取り終わったあとのサナギは、鯉のエサや
製薬会社の薬品原料になるそうで、ドイツでは
「パス」という結核治療薬の材料になっているそうです。
だから、製糸工場の女工さんは昔から結核にかかりにくい
というのがあったそうです。
最後に、製糸業の経営者だった吉田館・社主夫人の吉田愛子さん(82歳)の
言葉です。↓
~~~『岡谷蚕糸博物館紀要』第2号P10(岡谷蚕糸博物館出版)より~~~
============
昭和48年に会社の百年祭を開いた時のことです。
ウチの工場に来て働いた方は、たくさんいたわけですから、
新聞広告を出しましてね、どうしてもお出掛けいただきたかったから、
3日間にわたって市民会館をお借りしてやりました。
あの方は知ってるなあ、来ていて知ってる方だなあと
思う方ばかりでしたけれども、(来るかと思っていたのに)
みえない方がたくさんあったわけです。
ちゅうことは、(吉田館の百年祭は)この『あゝ野麦峠』の
本が出てしまってから後のことですので、当時の
子供さんたちもね、おふくろさんてあんなとこで
働いていたのかっていうようなことを言われたり、
自分も世間に恥ずかしいという、そういう気持ちを
持っておいでじゃないかなって、私はそんなことを思いました。
なんでお国のためと思って、立派な仕事をやった
みなさんが、そんな卑屈な思いをしなければいけない
のかなと、本当に気の毒に思いました。
そのうちに、野麦峠のところに何か記念碑を建てるような記事を
新聞で見ましたもんで、私もすぐに村長様にお電話しました。
どうかこういうことがありますので、そのことを良く胸におかれて
お作りくださるようにってね。
そしたら村長様はよくわかりましたって言ってくださいましたが
どうなりましたか。見たこともありませんけどね。
===============
一方的な方向から歴史を見せ、
日本を「完全否定」するのがサヨクです。
実話を元にした映画は特にサヨクの洗脳道具にも
利用されやすいと思います。
山田方谷の記事から、偶然にも「野麦峠」が自分の中で解明されて
いきました。
今まで全く興味がなかった「シルク」のすばらしさや、「繭」を利用した
日本のバイオ技術も知るきっかけとなりました。
2011/01/27(木) 19:32 | URL | 共通一次世代
>岡谷インターネット美術館以前は、このHPで、当時の岡谷の製糸場での写真などが
たくさん出ていて、当時の様子が手に取るように窺い知ることが
できたんですが、今はネットでは見ることが出来ませんね。
また「驚き!カイコとシルクの秘密」というコーナーもあって、
コメントで書いたような内容が非常に詳しく載っていて
とても勉強になったのですが、これも今は残念ながら
ネットで見ることは出来無くなってしまいました。
これがコメントを書いた3年前に見ることのできたHPの表紙です。↓
【岡谷インターネット美術館】いや、本当に「インターネット美術館」の名前のとおり
充実していましたので残念ですが、でも閲覧中止したのは
それだけ貴重な写真だったんでしょうね。
コメント文の中で貼ったリンク先の説明でも書いてるように、
製糸工場には専属の教師もいて、裁縫、家事、修身、国語、
編物、刺繍、生花、手芸などの補修授業も行なわれていたそうです。他にも岡谷の製糸場合同の盛大な運動会なども写真もありました。ただひとつ、当時は、今のように健康保険が無い時代ですから、
医者にかかるのは、「余程の時」だったようです。
そういう当時の時代背景や価値観を当然ですが鑑みておかなくては
いけないと思います。
(これは慰安婦問題でも言えます。)
それを除けば、福利厚生というのは、思った以上にしっかりしていたと考えることが出来ると思います。
そして何よりも、労働が確かにきつい仕事だったかもしれませんが、
報酬は、それに見合った充分なものだったのではないかと思われます。
証言を読んでいると、本当に映画の印象とは全く違う、工女たちの
「明るさ」や「力強さ」、そして雇用側の「優しさ」「真面目さ」も
見えてくると思います。
この「岡谷インターネット美術館」を提供していた
「岡谷蚕糸博物館」ですが、今年の8月1日に、製糸工場も併設される、とても充実した
新たなが出来るそうなので、ネットで見ることが出来た非常に
貴重な写真も、そちらで、見ることが出来ると思いますので、
是非皆さん夏休みに行かれたらいかがでしょうか。↓
【岡谷蚕糸博物館】※【追記】
平成26年8月1日リニューアルオープンの岡谷蚕糸博物館
「シルクファクトおかや」のホームページはこちらです。↓★岡谷蚕糸博物館 「シルクファクトおかや」この長野県岡谷市とは別に、群馬の富岡製糸場も面白そうです。↓
【富岡製糸場 | Facebook】【富岡製糸場ホームページ】★3年前に、ねずさんブログで書かせていただいた自分のコメントは、
書くにあたって、岡谷のインターネット美術館の他、こちらの
ブログを主に参考にさせていただきました。
ブログ「愛・蔵太の気になるメモ」様です。
ブログ主様、ありがとうございます。↓【製糸工場の工女は結核にならない?(その1):驚愕の事実
2005-10-29 - 愛・蔵太の気になるメモ】「製糸工場の工女は結核にならない?」シリーズは、
「その4」まであります。
■(その2): 左寄りの人のテキスト紹介
■(その3): 『あゝ野麦峠』許すまじ
■(その4): 野麦峠越えの実際
記事は連続しているので、ぜひ読んでみてください。
「目から鱗」です。
その中で、コメントに引用した部分以外にも
「岡谷蚕糸博物館」発行の『岡谷蚕糸博物館紀要』に掲載された、
岡谷の製糸工場で働いていた元工女のかたの「聞き語り」を
テキスト化して下さっていますので、再び引用させていただきます。↓
『岡谷蚕糸博物館紀要』あ博物館に頼めば購入も出来るし、
また、国会図書館にもバックナンバーがあるそうです。
【「武井はる子」さん(明治32年生まれ・聞き取りは平成7年7月)/第一号 P5】
「野麦峠」って映画、ああいうこともあったかも知れないが、
わしゃーの周囲にはなかったね。途中で病気になっても、
仕事仕事って、ああゆうあわれなことはなかったね。
寄宿舎じゃ、きまりがあって、時間までは本を読んでいようと
字を習おうと何してもいいが、消灯時間がすめばちゃんと一緒に
消しちゃうでね。
でもね、針仕事を教えたり、襦袢や単衣物ぐれえできなきゃいけねえ、
みんな縫わしたりね。
時間割ちゅうのが決まっていて、針仕事をしない晩は字を教えたりね、
そういうことは昔だったけど、よくやったねえ。
ほしてね、工場で具合悪くなった時なんかね、よく見てくれたぞね。
そういうことは、なんちゅうか徹底していたね、悪けりゃお医者様が
すぐ来るとか。
悪くなっても仕事させとくなんちゅう、そうゆうことはなかったね。
家へ帰るときは汽車へ乗ってね、そして岡谷へ来るときはたいがい
夜着くだわね。
そうしりゃー長い竿でもって高張りってね、こんな大きい提灯、
それにどんな大きいローソクつけるか知らないが、こんな大きい提灯を
マルト(注:工場の名前)ならマルト笠原組とかね、山吉組とか、みんな
出迎えだわね、今よりかもそういうことは盛んだったね、工女様々でね。
子供たちも、仕事、仕事、仕事の中でもって、大きくなったちゅうくらい。
大正3年から昭和7年ぐらいまで製糸で働いたんね。
【「小泉松恵」さん(92歳)の言葉 /第7号 P15,18】
(会社の)中に売店があって日用品くらいは買えたし図書館もあったし。
夜、外出なんていうときは本当に必要なもんだけ、めったになかった。
(外出のときは)外出券をもらって門番で、両方にこう立っていて、
窓があって、そこから外出券を出さないと外に出してくれない。
帰って来た時は(券を)出すとこに顔を出してね、入れてくれる。
(門限は)9時、遅くなれば怒られるからちゃんと時間内に帰ってきて。
また懐かしい話を持ってくるねえ、
こんな話、久しぶりにいき合ったから嬉しくていられない。
日曜は成田公園にでも行ったんじゃ。
〈娘〉「何がなくたって街へは行くよね」
ああ、店へね。
ヤマキョウ(注:小泉松恵さんが働いていた製糸工場)のところを
のぼればすぐ、あがったところに果物屋があって。
そこをちっと行けばエンドウさんちゅうね、(だんなさんが)
会社に出てくるウチのおばあさんがお菓子や食べ物の店をやっていて、
あんな遠くにはね日曜じゃなくちゃ(行けない)。
成田公園には日曜なんかにのぼって。
このあいだ行ってみたら、へえさみしいところになっちまって。
昔の面影がねえじゃん。
昔は喜んで成田公園にのぼったけんど。
--そういう時はおしゃれして行きましたか。
しゃれても見てくれる人もいねえもんで。(みんなで大笑い)
(中略)
あたしは岡谷が懐かしいだよ。
懐かしくて、寒い暑いよりもやたら懐かしい。
なんにもねー(面影が何も残っていなかった)、
ヤマキョウのところなんにもないじゃ。
〈娘〉「死ぬまでに行かれてよかったね」
よかったね。本当にありがたい。
(古い写真を見ながら)
90歳になってもメガネなしで新聞も読めるだよ。
懐かしいね。
こりゃーまったく懐かしいね。10年いただ。
--80年前ですよね。
そうだね、だけど成田公園もかわっちゃったね。
桜の木も勢いよくなっちゃって、小さい木だったからね。
木がかわったね。
岡谷の話をしてくれというんで懐かしく、うんと喋っちゃった。
原作では、まだ、百円工女の恵まれた環境や、
糸値に翻弄される製糸家の厳しい実情などにも
一応言及してはいるそうですが、表現においては
上のコメントでもあったように、とにかく「おどろおどろしい」。
そして、原作のそもそもの著者の目的は、やっぱり
「国が悪い」「国叩き」だったのだと思います。
しかし、それが映画になると、更に極端になって、
「社会も国も何もかもが全部、寄ってたかって女工を殺した!!!」
ということになり、もう救いようがない映画になってしまっています。
映画の影響はより恐ろしいものとなり、地元の人達、
また、特に、絹産業に携わる方達にとっては、
「イメージの悪化」というのが相当あったと思われます。
何を隠そう、自分も、相当誤った認識を持っていたわけで。
あの映画から、あのシルクの製糸場というのは、肺をやられて
しまうんだな、とずっと思い込んでいましたから。
そして、当然、カイコに対して、かなりマイナスなイメージも持って
しまっていました。
そして勿論、当時の「企業」や「人」に対しても・・・。
でも、
シルクの効用の知識を読んで、そのマイナスイメージは
殆ど無くなりました。
そして最も大切な、「企業」と「人」に対しての悪いイメージが
やっと取れました。
岡谷の方たちだけでなく、富岡を含む製糸業の方たちにとって、
これは本当に長い間苦しめられた「イメージ」ではなかったかと・・。
これは、はっきり言えば
非常に重大な「デマの流布」「風評被害」
に等しい。それくらいに重大な問題だと思います。
これではいけないと思い、その悪いイメージを払拭させるために、
それこそ地元の方たちは企画展や博物館の充実などを
進めてきたんだろうと思います。
たった一つの映画で、これほどまでに簡単に
「イメージを落とす」ことが
できるんですよね。
テレビも同じで、たった一言で、たった一瞬の映像で、
あっという間にイメージが「ガタ落ち」し、
それに洗脳されてしまいます。
それが繰り返されると、もう止めようがなくなります。
それだけ、映像の影響というのは計り知れないし、
恐ろしいものであると思います。
報ステにもよく出る
「妬みの塊」古賀茂明。
何でもかんでも
「絶対悪」のように言いますよね。
「官僚」「国家」「大企業」「東電」・・・。
古賀にとっては、それらは
「全て悪」。
橋下市政で大阪府市統合本部特別顧問という公の立場であるながら、
関西電力に対して
「停電テロリスト」と言い放った時には、
古賀のことを心から
「人間のクズ」だと思いました。
その言葉を否定しないどころか肯定した橋下も同罪です。
2人共、謝罪さえしてませんからね。
侮辱罪ですよ、本当に。
また、この古賀を今でも重宝して使い続けるマスコミも
本当に許せないです。
他国にも左翼は勿論いますが、ちゃんと祖国のために方法を考えます。
でも
日本のサヨクは日本が嫌いで日本を破壊したがります。分別するために「サヨク」とカタカナでよく書かれるけれど、
本当に、信じられない。
「社会のせい」「国のせい」・・。
社會が悪けりゃ、国が悪けりゃ、国会前で毎週、毎週、
太鼓やカネ鳴らしてドンドコドンドコ大騒ぎしても、
オスプレイめがけて、まるで「落ちろ」と言わんばかりに
ワイヤーつきの風船や凧を上げる危険行為を犯しても、
原発の風評被害を福島にもたらしても、
米軍基地の金網にテープと共にガラス片仕込んで、
テープをはがす日本人が手を切るような嫌がらせしても、
それらを全て、正当な抗議行動として、煽りまくるマスコミ。犯罪を奨励しているのは一体どこのどなた様なんでしょうかね、
マスコミさん?これが蔓延すれば、今回のような通り魔殺人犯に、都合の
良いように使われてしまう。
本当は「欲」と「妬み」で犯罪に走っているだけなのに。
でも、これをまた
「人権弁護士」とやらが、殺人犯を擁護するために
利用する。
「社会のせい」「国のせい」=「加害者にも事情がある」にして。
なんて悪循環なのかと思います。
このような映画ばかり作る映画人が多すぎることも日本の問題点
であるとつくづく思います。
そして何より、これを毎日毎日煽動するマスコミ連中の罪は
本当にとてつもなく大きいです。
- 関連記事
-