【日本の大切な隣人、台湾の心 ⑦】 日本でも教科書に絶対載せて欲しい。烏山頭ダムの「八田與一」
- 2013/08/24
- 15:18
前回の記事で「嘉義農林学校」を取り上げました。↓
【日本の大切な隣人、台湾の心 ⑥】 高校野球の原点を見る。台湾の「嘉義農林学校」。映画「KANO」は台湾で来春公開。日本でも見たい!
「嘉義農林学校」が甲子園で準優勝をしたのが、昭和6年(1931年)でした。
この学校が在る嘉南地方には「烏山頭(うさんとう)ダム」という、
とても大きくて、しかもダムでありながら「風光明媚な」ダムがあります。
準優勝した当時の嘉義農林学校野球部を描いた映画「KANO]も昨日ご紹介しましたが、
その映画にもこの「烏山頭ダム」が出てきます。
「烏山頭ダム」が完成したのが、準優勝した前年の昭和5年(1930年)でした。
なんかドラマチックです。
★映画では当時の「完成記念放水式」が再現され、地元でも話題になったようです。↓
【烏山頭水庫完工典禮 《KANO》重現 | 雲嘉南 | 地方新聞 | 聯合新聞網】】
この烏山頭ダム完成に大きく貢献し、今もなお多くの台湾の人達に慕われている人物。
それが「八田與一(はったよいち)」です。
しかし、「八田與一」という偉大な日本人を知っている日本人はいったいどれほどいるんでしょうか・・。
ネットで検索すれば、すぐに膨大な数の検索結果が得られますが・・。
★その中で、とても分かりやすい内容の文字説明の動画がありましたので、書き起こしてみました。↓
【八田與一 】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ニュートン力学や熱力学などの天然自然の法則と人々の幸せは
そのままでは交わることのない平行線である。
この2つを結ぶ学問を工学と呼ぶ。
(工学の「工」という字は「横一(ヨコイチ)」2本の線が1本の縦の線で結ばれている)
あくまで理想を貫き通した男がいた。
「八田與一」。
◇
八田與一は明治19年(1886年)金沢に生まれた。
第四高等学校を経て明治43年(1910年)東京帝国大学 土木工学科に入学。
卒業後、台湾総督府 内務局 土木課に勤務した。
当初は衛生工事を担当していたが28歳からは水利事業を担当、頭角を現す。
桃園用水路の工事に従事しながら大正6年(1917年)からは嘉南平野の利水のための現地調査を開始する。
嘉南平野は、台湾全体の耕地面積の約2割を占める広大な土地であるが、利水が問題だった。
雨季には氾濫、洪水。
乾季には川底まで干上がり、海からの塩害もあった。
八田與一の計画は官田渓烏山頭のダムを建設すると共に、農地まで水路を引くものであった。
しかし八田與一を悩ます問題があった
官田渓水系の降水量で嘉南平野全体を潤すには不十分だったのだ。
大地の利を超えて、八田與一は人々を幸せにする方法を模索する。
トンネルを掘削し、隣の曽文渓から水を引き、
最大貯水量1億5千万トンのダムを建設することにした。
この水量は黒部ダムの75%。
同時期に建設された狭山ダムの7倍である。
後にフーバーダムに抜かれるが当時としては世界最大のダムである。
そもそも貯水量が増えれば、水を引く農地が増え、用水の総延長も伸びる。
わざわざトンネル工事を追加して貯水量を増やすと、予算は膨らむ一方である。
しかもこのトンネルは直径8m55cm、長さ4km
国内では記録更新の規模だった。
ところが八田與一はこれでも満足しなかった。
この水量でも嘉南平野の3分の1で稲作をする分に過ぎなかったのだ
そこで八田與一は「三年輪作給水法」を提案する。
それは給水地域を3つに分け、毎年給水期間の違う作物を
作付けするというものであった。
稲作地 6月~9月
砂糖きび 10月~12月
雑穀 (休耕田)
土木技術者としての枠を超えていた。
土地に着眼すると複雑な作業となる。
1年目 稲作
2年目 砂糖きび(水田→畑)
3年目 雑穀または休耕田
4年目 稲作(畑→水田)
これは東京農業大学出身の中島力技師が農村を巡回し、
苗代造り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方まで指導した。
かくして嘉南平野全域に用水路を張り巡らす壮大な計画が
3年がかりで練り上げられた。
予算総額は4200万円。
台湾総督府の年間予算の3分の1に当たる大事業である。
日本帝国議会はこの大事業の予算を承認。
大正10年(1921年)から工事が始まった。
◇
八田與一が最初に取り組んだ工事は作業員の宿舎建設だった。
長期間に及ぶ工事の間、家族の支えが必要との考えから、
家族と一緒に暮らせる住宅建設から始まり、
子供たちが通う学校、共同浴場、商店やテニスコート、
広場といった娯楽施設もあり、
まさに街を丸ごと作ってしまった。
「それって無駄じゃないですか?」
事務官との折衝は事あるごとに繰り返された。
◇
工事が始まった直後、八田與一は2つの目的のためアメリカに渡る。
1つは重機の購入である。
予算の4分の1を重機の代金に当てた。
ところが重機操縦の為に雇ったアメリカ人技師は働こうとはしなかった。
「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」
八田與一の叱咤激励に答えて、日本人や台湾人は見よう見まねで重機の操作を覚えていった。
彼らの操縦の上達ぶりにはアメリカ人技師も舌を巻いたと言われている。
八田與一が渡米したもう一つの目的。
それはまだ日本では例のない「セミ・ハイドロリックフィル工法」を学ぶことだった。
「セミ・ハイドロリックフィル工法」とはコンクリートを余り使わない築堤方法で、
こうして作られた堤の高さ56m。
◇
大正11年(1922年)12月事故が発生してしまう。
トンネル掘削中、石油ガスが噴出し引火、爆発。
約50名が亡くなる事故であった。
八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走した。
八田がいつもの作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、
遺族は八田の言葉をおし頂くように聞き入り嗚咽したという。
「仲間を死なせた・・」
八田の自責の念が滲み出ていた。
「八田は俺達の親父の様なものだ。」
「俺達のため、台湾のため命がけで働いてる親父がいるんだ。」
「俺達だってへこたれるものか!」
逆に台湾の人たちが八田與一を励ました。
工事中に殉職された方々の慰霊碑は、日本人、台湾人の区別なく刻まれた。
◇
大正12年(1923年)9月関東大震災が発生。
台湾総督府は年間予算の30%を復興支援の為財政援助を申し出た。
これによりダム工事の予算も削減され、作業員の半分を解雇するやむなきに至る。
この時、八田は熟練工から順番に解雇した。
手に職が無い程、再就職が困難だからである。
解雇した者の再就職には八田自身が親身になって奔走し、
工事再開の折には再雇用する条件をつけた。
◇
数々の困難を克服し起工から10年後の昭和5年(1930年)、烏山頭ダムは完成した。
トンネルを通して1億5千万トンの水を流すのにも40日を要した。
総延長16000kmに及ぶ用水路は、勾配が1%しかない箇所もあったが、
設計通りに水は流れ嘉南平野全体を潤した。
これで砂糖きびも育たなかった土地が穀倉地帯に生まれ変わった。
実際に、農作物による増収はダム完成の6年後以降だったが、
甘藷の収穫量は2倍、
コメの収穫量は6倍、嘉南平野の農民お収入は年間2000万円増えた。
◇
ダムが完成した翌昭和5年(1930年)、苦楽を共にした仲間が八田與一の銅像を立てた。
工事中の様子をそのまま写した、ある意味珍しい銅像である。
親父を敬い、感謝した仲間たちの真情を垣間見るようである。
◇
台湾と八田與一の幸福な時間は長くは続かなかった。
八田與一自身は昭和17年(1942年)、フィリピンに向かう途中、
船が米軍の潜水艦に沈められ、この世を去った
戦況悪化し金属供出が盛んに行われる昭和19年(1944年)、
八田の銅像も姿を消した。
昭和20年(1945年)、終戦を迎え、日本人へ台湾からの引き揚げ命令が下る。
八田與一の妻、外代樹(とよき)は烏山頭ダムの放水口に身を投じた。
夫の元を離れたくなかったのだろう。
◇
蒋介石政権下でも台湾の人々は八田與一の事を忘れなかった。
昭和21年(1946年)、台湾の人たちは烏山頭ダムの畔に八田夫妻の墓を建てた。
この後、台湾では戒厳令が布かれ、厳しい統制下に入るが、墓前の花は絶えなかった。
昭和56年(1981年)、八田與一の銅像が再び目の前に姿を現す。
八田與一を慕う人が密かに保管していたのだ。
蒋介石が日本統治時代の痕跡を懸命に抹消していた時に、
日本人の銅像を隠し通したことは相当な危険を伴っていた。
強い思いに守られた銅像は八田夫妻の墓前に設置された。
◇
平成13年(2001年)、放水口のすぐ近くに「八田與一記念室」が完成。
平成23年(2011年)、ダム工事中に八田與一が住んでいた住居も
復元され記念公園がオープンした。
思いは今も途切れていない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★八田與一の銅像についてのエピソードについて。↓
【八田與一小6・中学社会 学校でまなびたい歴史 20110422】
★台湾では「八田與一」のことを後世に伝えたいとする人たちが大勢いるんですよね。
もう、なんというか、本当に台湾の人たちの心に打たれてしまいます。↓
【"台湾農業の父" 八田與一氏 没後70年 】
★3分30秒頃から「人形劇で語り継ぐ八田技師の偉業」として、
台湾の人形劇が紹介されています。
「八田與一」の物語が台湾の伝統的人形劇「布袋戯」(プータイシー、ほていげき)で
演じられています。
ほんの一部ですが、これは必見です!
リポートによると、昨年、台湾で八田技師を主人公にした作品が上演され、
注目を集めたそうです。
劇の脚本を書いたのは「李 京曄(り きょうよう)」さん。
李さんは、日本での東日本大震災のあと、
180億円を超える義援金が台湾で集まったことに驚き、
日本と台湾の「友好の礎」を築いた人物として、
八田技師を取り上げることにしたそうです。
八田技師に関する資料を読みあさり、
半年かけて脚本を完成させたそうです。
「八田さんは私達台湾人
のために大きな貢献をし、台湾を愛していた。」
「八田さんは日本と台湾の間で続く友好関係を象徴する人物だ。」
「この劇の公演が代々続き、八田さんの精神や人物像が語り継がれることを期待している。」
「いつか日本でもこの劇の公演を行い、八田さんへの感謝の思いを示したい。」
李さんの言葉、なんか、じ~んときます。
この番組は、NHK、BS1の「ワールドWave モーニング」
(毎週月曜~土曜 午前7時~7時50分)という、
世界中から伝送されてきたニュースをピックアップして
いち早く届ける番組だそうです。
今回のものは番組内の「ニュース・カフェ」というコーナーで
昨年放送されたようです。↓
【ワールドWave NHK BS1[番組紹介]|ワールドWave モーニング/ワールドWave トゥナイト/ワールドWave アジア/ワールドWave】
正直、キャスターの感想はいらないですね。
★このように台湾では「八田與一」に関するニュースや特集などが
結構取り上げられているようです。
こちらは2009年5月に行われた「八田與一春懷德」の様子です。↓
【八田與一春懷德】
★日本では、「虫プロ」がアニメ作品
「パッテンライ!! 南の島の水ものがたり」という作品を作っています。
【パッテンライ!!〜南の島の水ものがたり〜 八田與一 八田与一 烏山頭ダム 嘉南平原 – 虫プロダクション株式会社】
主人公「八田與一」の妻、「外代樹」役の声優さんは、
父が台湾人、母が日本人のハーフ、「一青妙」さんで、
主題歌を歌う「一青窈」さんとの姉妹共演作品にも
なっているとのことです。
★こちらはPVです。↓
【パッテンライ!!サンプル映像.MP4 - YouTube】
2008年11月15日に公開。
文部科学省選定。
土木学会土木技術映像委員会選定映画。
もっと小学校、中学校で流してもらえないですかね、これ。
全て事実なんですから。
学校で利用されるべき本やビデオは絶対プロパガンダが入ってはいけないですよね。
そういう本やビデオは絶対に学校の図書館に置くべきではないと思っています。
学校で歴史を知るなら、事実を曲げているものや捏造したものは扱ってはいけない。
そう思います。
石川県金沢市では、「八田與一」のことを学校で学ぶようですね。
ホッとしました。
「八田與一」は教科書で日本全国の子供たちにも教えるべき人だと思います。絶対。
また、ダム建設など、今の自分達の生活に直結した出来事であるので、
とても親しみを持って子供たちは受け入れることが出来ると思います。
技術だけでなく、台湾の人たちとの関わりがとにかく素晴らしい・・。
今を生きる私達が先人の頑張りを知らないままでは、それこそ未来が間違った方向に
行ってしまう・・。
「八田與一」から繋がる台湾の人たちとの大きな糸。
この糸は台湾の人たちが大事に大事に紡いできてくれたお陰で切れることがなかった。
もし台湾の人たちが紡いでくれていなかったら、この糸はとっくの昔に切れていた。
日本統治時代の先人の大切な大切な「証明」と「心」を
台湾人たちはずっと守ってきてくれていた。
日本人は殆どその糸の存在すら知らぬままに今日まで来てしまった。
少しでも少しでもネットで広め、教科書に載せることが出来るように
していけたらと思います。
私も積極的に台湾のことを話題にしてみます。
旅行の話題でも出しやすいですし。
グルメでも出しやすいし。
日本統治時代の素晴らしい建築物もたくさんある。
台湾の人たちが守ってくれた「日本の先人の跡」がそこかしこにある。
台湾のことなら肯定的に人に伝えることができます。
どこぞの国のような否定的なことは人はあまり聞いてくれません。
マイナスな国のことよりも台湾のような国ならどんどん話が広がります。^^
そこから歴史もきっと見えてきます。
少しづつ、少しづつ、気が付いてもらえます。
台湾は日本のとても大事な友達です。
心からそう思います。
【日本の大切な隣人、台湾の心 ⑥】 高校野球の原点を見る。台湾の「嘉義農林学校」。映画「KANO」は台湾で来春公開。日本でも見たい!
「嘉義農林学校」が甲子園で準優勝をしたのが、昭和6年(1931年)でした。
この学校が在る嘉南地方には「烏山頭(うさんとう)ダム」という、
とても大きくて、しかもダムでありながら「風光明媚な」ダムがあります。
準優勝した当時の嘉義農林学校野球部を描いた映画「KANO]も昨日ご紹介しましたが、
その映画にもこの「烏山頭ダム」が出てきます。
「烏山頭ダム」が完成したのが、準優勝した前年の昭和5年(1930年)でした。
なんかドラマチックです。
★映画では当時の「完成記念放水式」が再現され、地元でも話題になったようです。↓
【烏山頭水庫完工典禮 《KANO》重現 | 雲嘉南 | 地方新聞 | 聯合新聞網】】
この烏山頭ダム完成に大きく貢献し、今もなお多くの台湾の人達に慕われている人物。
それが「八田與一(はったよいち)」です。
しかし、「八田與一」という偉大な日本人を知っている日本人はいったいどれほどいるんでしょうか・・。
ネットで検索すれば、すぐに膨大な数の検索結果が得られますが・・。
★その中で、とても分かりやすい内容の文字説明の動画がありましたので、書き起こしてみました。↓
【八田與一 】
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ニュートン力学や熱力学などの天然自然の法則と人々の幸せは
そのままでは交わることのない平行線である。
この2つを結ぶ学問を工学と呼ぶ。
(工学の「工」という字は「横一(ヨコイチ)」2本の線が1本の縦の線で結ばれている)
あくまで理想を貫き通した男がいた。
「八田與一」。
◇
八田與一は明治19年(1886年)金沢に生まれた。
第四高等学校を経て明治43年(1910年)東京帝国大学 土木工学科に入学。
卒業後、台湾総督府 内務局 土木課に勤務した。
当初は衛生工事を担当していたが28歳からは水利事業を担当、頭角を現す。
桃園用水路の工事に従事しながら大正6年(1917年)からは嘉南平野の利水のための現地調査を開始する。
嘉南平野は、台湾全体の耕地面積の約2割を占める広大な土地であるが、利水が問題だった。
雨季には氾濫、洪水。
乾季には川底まで干上がり、海からの塩害もあった。
八田與一の計画は官田渓烏山頭のダムを建設すると共に、農地まで水路を引くものであった。
しかし八田與一を悩ます問題があった
官田渓水系の降水量で嘉南平野全体を潤すには不十分だったのだ。
大地の利を超えて、八田與一は人々を幸せにする方法を模索する。
トンネルを掘削し、隣の曽文渓から水を引き、
最大貯水量1億5千万トンのダムを建設することにした。
この水量は黒部ダムの75%。
同時期に建設された狭山ダムの7倍である。
後にフーバーダムに抜かれるが当時としては世界最大のダムである。
そもそも貯水量が増えれば、水を引く農地が増え、用水の総延長も伸びる。
わざわざトンネル工事を追加して貯水量を増やすと、予算は膨らむ一方である。
しかもこのトンネルは直径8m55cm、長さ4km
国内では記録更新の規模だった。
ところが八田與一はこれでも満足しなかった。
この水量でも嘉南平野の3分の1で稲作をする分に過ぎなかったのだ
そこで八田與一は「三年輪作給水法」を提案する。
それは給水地域を3つに分け、毎年給水期間の違う作物を
作付けするというものであった。
稲作地 6月~9月
砂糖きび 10月~12月
雑穀 (休耕田)
土木技術者としての枠を超えていた。
土地に着眼すると複雑な作業となる。
1年目 稲作
2年目 砂糖きび(水田→畑)
3年目 雑穀または休耕田
4年目 稲作(畑→水田)
これは東京農業大学出身の中島力技師が農村を巡回し、
苗代造り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方まで指導した。
かくして嘉南平野全域に用水路を張り巡らす壮大な計画が
3年がかりで練り上げられた。
予算総額は4200万円。
台湾総督府の年間予算の3分の1に当たる大事業である。
日本帝国議会はこの大事業の予算を承認。
大正10年(1921年)から工事が始まった。
◇
八田與一が最初に取り組んだ工事は作業員の宿舎建設だった。
長期間に及ぶ工事の間、家族の支えが必要との考えから、
家族と一緒に暮らせる住宅建設から始まり、
子供たちが通う学校、共同浴場、商店やテニスコート、
広場といった娯楽施設もあり、
まさに街を丸ごと作ってしまった。
「それって無駄じゃないですか?」
事務官との折衝は事あるごとに繰り返された。
◇
工事が始まった直後、八田與一は2つの目的のためアメリカに渡る。
1つは重機の購入である。
予算の4分の1を重機の代金に当てた。
ところが重機操縦の為に雇ったアメリカ人技師は働こうとはしなかった。
「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」
八田與一の叱咤激励に答えて、日本人や台湾人は見よう見まねで重機の操作を覚えていった。
彼らの操縦の上達ぶりにはアメリカ人技師も舌を巻いたと言われている。
八田與一が渡米したもう一つの目的。
それはまだ日本では例のない「セミ・ハイドロリックフィル工法」を学ぶことだった。
「セミ・ハイドロリックフィル工法」とはコンクリートを余り使わない築堤方法で、
最初にコンクリートコアを作ります。
土砂を積み上げ、
中心から水をかけ、泥水が返って来るようにします。
大きな石や礫はその場に溜まり、粒の小さな砂や泥ほど中心部まで流されます。
余分な水を排水し、層を重ねていきます。
こうして中心部に水に強い粒子の細かい層を形成します。
こうして作られた堤の高さ56m。
◇
大正11年(1922年)12月事故が発生してしまう。
トンネル掘削中、石油ガスが噴出し引火、爆発。
約50名が亡くなる事故であった。
八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走した。
八田がいつもの作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、
遺族は八田の言葉をおし頂くように聞き入り嗚咽したという。
「仲間を死なせた・・」
八田の自責の念が滲み出ていた。
「八田は俺達の親父の様なものだ。」
「俺達のため、台湾のため命がけで働いてる親父がいるんだ。」
「俺達だってへこたれるものか!」
逆に台湾の人たちが八田與一を励ました。
工事中に殉職された方々の慰霊碑は、日本人、台湾人の区別なく刻まれた。
◇
大正12年(1923年)9月関東大震災が発生。
台湾総督府は年間予算の30%を復興支援の為財政援助を申し出た。
これによりダム工事の予算も削減され、作業員の半分を解雇するやむなきに至る。
この時、八田は熟練工から順番に解雇した。
手に職が無い程、再就職が困難だからである。
解雇した者の再就職には八田自身が親身になって奔走し、
工事再開の折には再雇用する条件をつけた。
◇
数々の困難を克服し起工から10年後の昭和5年(1930年)、烏山頭ダムは完成した。
トンネルを通して1億5千万トンの水を流すのにも40日を要した。
総延長16000kmに及ぶ用水路は、勾配が1%しかない箇所もあったが、
設計通りに水は流れ嘉南平野全体を潤した。
これで砂糖きびも育たなかった土地が穀倉地帯に生まれ変わった。
実際に、農作物による増収はダム完成の6年後以降だったが、
甘藷の収穫量は2倍、
コメの収穫量は6倍、嘉南平野の農民お収入は年間2000万円増えた。
◇
ダムが完成した翌昭和5年(1930年)、苦楽を共にした仲間が八田與一の銅像を立てた。
工事中の様子をそのまま写した、ある意味珍しい銅像である。
親父を敬い、感謝した仲間たちの真情を垣間見るようである。
◇
台湾と八田與一の幸福な時間は長くは続かなかった。
八田與一自身は昭和17年(1942年)、フィリピンに向かう途中、
船が米軍の潜水艦に沈められ、この世を去った
戦況悪化し金属供出が盛んに行われる昭和19年(1944年)、
八田の銅像も姿を消した。
昭和20年(1945年)、終戦を迎え、日本人へ台湾からの引き揚げ命令が下る。
八田與一の妻、外代樹(とよき)は烏山頭ダムの放水口に身を投じた。
夫の元を離れたくなかったのだろう。
◇
蒋介石政権下でも台湾の人々は八田與一の事を忘れなかった。
昭和21年(1946年)、台湾の人たちは烏山頭ダムの畔に八田夫妻の墓を建てた。
この後、台湾では戒厳令が布かれ、厳しい統制下に入るが、墓前の花は絶えなかった。
昭和56年(1981年)、八田與一の銅像が再び目の前に姿を現す。
八田與一を慕う人が密かに保管していたのだ。
蒋介石が日本統治時代の痕跡を懸命に抹消していた時に、
日本人の銅像を隠し通したことは相当な危険を伴っていた。
強い思いに守られた銅像は八田夫妻の墓前に設置された。
◇
平成13年(2001年)、放水口のすぐ近くに「八田與一記念室」が完成。
平成23年(2011年)、ダム工事中に八田與一が住んでいた住居も
復元され記念公園がオープンした。
思いは今も途切れていない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★八田與一の銅像についてのエピソードについて。↓
【八田與一小6・中学社会 学校でまなびたい歴史 20110422】
水利組合の人々や農民たちは感謝の心をこめて
八田の銅像をつくった。
農民たちは、八田の「えらそうな像はやめてくれよ」という希望を入れ、
作業着姿で工事を見守る八田像を作り、
台座もなしで堤の上にじかに据え付けた。
この含羞もまた、八田のいとおしむ心によく似合っている。
いまも、その八田與一像と八田夫妻の墓が烏山頭にある。
八田は左足を投げ出し右膝を立てて堤に腰掛けている。
右手は髪の毛をくるくる丸めるようにいじっている。
これは八田が考え事をしていたときのくせだそうだ。
日本人の銅像は、戦後すぐに破壊されるなどしてすべて失われたが、
ただ一つ八田の像だけは農民たちによって守り抜かれ、
昭和51年、再びここに設置することをゆるされた。
今でも、八田の命日である5月8日には、毎年墓前祭が行われている。
嘉南平野60万の農民たちは、いまも八田與一を嘉南平野の父として慕い、
その功績を称えているのである。
★台湾では「八田與一」のことを後世に伝えたいとする人たちが大勢いるんですよね。
もう、なんというか、本当に台湾の人たちの心に打たれてしまいます。↓
【"台湾農業の父" 八田與一氏 没後70年 】
★3分30秒頃から「人形劇で語り継ぐ八田技師の偉業」として、
台湾の人形劇が紹介されています。
「八田與一」の物語が台湾の伝統的人形劇「布袋戯」(プータイシー、ほていげき)で
演じられています。
ほんの一部ですが、これは必見です!
リポートによると、昨年、台湾で八田技師を主人公にした作品が上演され、
注目を集めたそうです。
劇の脚本を書いたのは「李 京曄(り きょうよう)」さん。
李さんは、日本での東日本大震災のあと、
180億円を超える義援金が台湾で集まったことに驚き、
日本と台湾の「友好の礎」を築いた人物として、
八田技師を取り上げることにしたそうです。
八田技師に関する資料を読みあさり、
半年かけて脚本を完成させたそうです。
「八田さんは私達台湾人
のために大きな貢献をし、台湾を愛していた。」
「八田さんは日本と台湾の間で続く友好関係を象徴する人物だ。」
「この劇の公演が代々続き、八田さんの精神や人物像が語り継がれることを期待している。」
「いつか日本でもこの劇の公演を行い、八田さんへの感謝の思いを示したい。」
李さんの言葉、なんか、じ~んときます。
この番組は、NHK、BS1の「ワールドWave モーニング」
(毎週月曜~土曜 午前7時~7時50分)という、
世界中から伝送されてきたニュースをピックアップして
いち早く届ける番組だそうです。
今回のものは番組内の「ニュース・カフェ」というコーナーで
昨年放送されたようです。↓
【ワールドWave NHK BS1[番組紹介]|ワールドWave モーニング/ワールドWave トゥナイト/ワールドWave アジア/ワールドWave】
正直、キャスターの感想はいらないですね。
★このように台湾では「八田與一」に関するニュースや特集などが
結構取り上げられているようです。
こちらは2009年5月に行われた「八田與一春懷德」の様子です。↓
【八田與一春懷德】
★日本では、「虫プロ」がアニメ作品
「パッテンライ!! 南の島の水ものがたり」という作品を作っています。
【パッテンライ!!〜南の島の水ものがたり〜 八田與一 八田与一 烏山頭ダム 嘉南平原 – 虫プロダクション株式会社】
主人公「八田與一」の妻、「外代樹」役の声優さんは、
父が台湾人、母が日本人のハーフ、「一青妙」さんで、
主題歌を歌う「一青窈」さんとの姉妹共演作品にも
なっているとのことです。
★こちらはPVです。↓
【パッテンライ!!サンプル映像.MP4 - YouTube】
2008年11月15日に公開。
文部科学省選定。
土木学会土木技術映像委員会選定映画。
もっと小学校、中学校で流してもらえないですかね、これ。
全て事実なんですから。
学校で利用されるべき本やビデオは絶対プロパガンダが入ってはいけないですよね。
そういう本やビデオは絶対に学校の図書館に置くべきではないと思っています。
学校で歴史を知るなら、事実を曲げているものや捏造したものは扱ってはいけない。
そう思います。
石川県金沢市では、「八田與一」のことを学校で学ぶようですね。
ホッとしました。
「八田與一」は教科書で日本全国の子供たちにも教えるべき人だと思います。絶対。
また、ダム建設など、今の自分達の生活に直結した出来事であるので、
とても親しみを持って子供たちは受け入れることが出来ると思います。
技術だけでなく、台湾の人たちとの関わりがとにかく素晴らしい・・。
今を生きる私達が先人の頑張りを知らないままでは、それこそ未来が間違った方向に
行ってしまう・・。
「八田與一」から繋がる台湾の人たちとの大きな糸。
この糸は台湾の人たちが大事に大事に紡いできてくれたお陰で切れることがなかった。
もし台湾の人たちが紡いでくれていなかったら、この糸はとっくの昔に切れていた。
日本統治時代の先人の大切な大切な「証明」と「心」を
台湾人たちはずっと守ってきてくれていた。
日本人は殆どその糸の存在すら知らぬままに今日まで来てしまった。
少しでも少しでもネットで広め、教科書に載せることが出来るように
していけたらと思います。
私も積極的に台湾のことを話題にしてみます。
旅行の話題でも出しやすいですし。
グルメでも出しやすいし。
日本統治時代の素晴らしい建築物もたくさんある。
台湾の人たちが守ってくれた「日本の先人の跡」がそこかしこにある。
台湾のことなら肯定的に人に伝えることができます。
どこぞの国のような否定的なことは人はあまり聞いてくれません。
マイナスな国のことよりも台湾のような国ならどんどん話が広がります。^^
そこから歴史もきっと見えてきます。
少しづつ、少しづつ、気が付いてもらえます。
台湾は日本のとても大事な友達です。
心からそう思います。
- 関連記事
-
- 全国の映画館で上映して欲しい!! 台湾の映画 「KANO」 。 日本統治時代の台湾からの甲子園。 (2014/03/09)
- 台湾の人たちに伝えよう。 「菅直人は台湾の敵である!」 と。 (2013/09/15)
- 【日本の大切な隣人、台湾の心 ⑦】 日本でも教科書に絶対載せて欲しい。烏山頭ダムの「八田與一」 (2013/08/24)
- 【日本の大切な隣人、台湾の心 ⑥】 高校野球の原点を見る。台湾の「嘉義農林学校」。映画「KANO」は台湾で来春公開。日本でも見たい! (2013/08/22)
- 【日本の大切な隣人、台湾の心 ⑤】 「後藤新平」の「自治の三訣」と「台湾」 (2013/08/21)
「はだしのゲン」閉架反対署名活動をする人たち。学童保育指導員から脱原発プロ市民、そして朝鮮学校まで全てが繋がる。 ホーム
【日本の大切な隣人、台湾の心 ⑥】 高校野球の原点を見る。台湾の「嘉義農林学校」。映画「KANO」は台湾で来春公開。日本でも見たい!