広島の「慰霊」と「鎮魂」を思う。
- 2013/08/07
- 06:21
8月6日。
小学生のころから、NHKで中継される広島の平和記念式典を見てきた。
祖母が必ず見ていたから一緒に見始めたのだと思う。
昔は、テレビの前で静かに拝んでいた。
純粋にそうしていた。
それはイメージとして覚えている。
でも、
昨日は、もう敢えて見なかった。
「喧騒」や「雑音」が耐えられないと思った。
最も大切な「慰霊」が置き去りにされてる。
ここ数年、特にそう感じる。
正直、「平和」という言葉が、日本では汚されてきたように感じる。
「平和」という言葉の他にも、
多くの言葉を飾れば飾るほど、
「慰霊」と「鎮魂」が遠くなっていくような気がする。
だから、「宣言」はいらない。
誰の「宣言」もいらない。
子供たちの「宣言」もいらない。
子供たちには、8時15分に鳴らす「鎮魂の鐘」だけを委ねるだけでいい。
「平和の歌」もいらない。
花を手向け、頭を垂れ、手を合わせ、
静かに黙祷する。
「慰霊」と「鎮魂」。
これが最も大切なもの。
「安らかに」
靖国神社も同じ。
「慰霊」と「鎮魂」が置き去りにされ、
「喧騒」と「雑音」の中に巻き込まれ、
そして、「紛争の火種」とされてしまっている。
「慰霊」と「鎮魂」。
これが最も大切なもの。
「安らかに」
日本人が当たり前に、
頭を垂れ、手を合わせる。
外国人も。
硫黄島での日米合同慰霊祭。
追悼の言葉の中に「平和」という言葉があっても、心はざわつくことはない。
何故だろうか。
あの慰霊祭では、
「慰霊」と「鎮魂」が真正面にちゃんと据えられているからだと思う。
それが、最も大切なこととして、ちゃんと進められているからだと思う。
「喧騒」も「雑音」もない。
クリアで、心からの「慰霊」。
そう伝わるからだと思う。
「広島平和式典」。
今の状況では、
硫黄島の慰霊祭のような「真の慰霊」からは程遠い。
いや、これから益々遠くなってしまう。
広島市のHPを見ると、
「平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)」
こう書かれている。
「広島慰霊式典」
これだけにして欲しい。
いまの「喧騒」と「雑音」の中で、
肝心のことが忘れ去られてしまうのであれば、
これだけにして欲しい。
この日一日は、静かに黙祷する日。
静かに御霊を慰める日。
正時ごとか、毎時15分に、
「鎮魂の鐘」を鳴らす。
「安らかに」
そういう一日にして欲しい。
純粋な気持ちで「慰霊の日」を過ごしたい。
そう思う。
小学生のころから、NHKで中継される広島の平和記念式典を見てきた。
祖母が必ず見ていたから一緒に見始めたのだと思う。
昔は、テレビの前で静かに拝んでいた。
純粋にそうしていた。
それはイメージとして覚えている。
でも、
昨日は、もう敢えて見なかった。
「喧騒」や「雑音」が耐えられないと思った。
最も大切な「慰霊」が置き去りにされてる。
ここ数年、特にそう感じる。
正直、「平和」という言葉が、日本では汚されてきたように感じる。
「平和」という言葉の他にも、
多くの言葉を飾れば飾るほど、
「慰霊」と「鎮魂」が遠くなっていくような気がする。
だから、「宣言」はいらない。
誰の「宣言」もいらない。
子供たちの「宣言」もいらない。
子供たちには、8時15分に鳴らす「鎮魂の鐘」だけを委ねるだけでいい。
「平和の歌」もいらない。
花を手向け、頭を垂れ、手を合わせ、
静かに黙祷する。
「慰霊」と「鎮魂」。
これが最も大切なもの。
「安らかに」
靖国神社も同じ。
「慰霊」と「鎮魂」が置き去りにされ、
「喧騒」と「雑音」の中に巻き込まれ、
そして、「紛争の火種」とされてしまっている。
「慰霊」と「鎮魂」。
これが最も大切なもの。
「安らかに」
日本人が当たり前に、
頭を垂れ、手を合わせる。
外国人も。
硫黄島での日米合同慰霊祭。
追悼の言葉の中に「平和」という言葉があっても、心はざわつくことはない。
何故だろうか。
あの慰霊祭では、
「慰霊」と「鎮魂」が真正面にちゃんと据えられているからだと思う。
それが、最も大切なこととして、ちゃんと進められているからだと思う。
「喧騒」も「雑音」もない。
クリアで、心からの「慰霊」。
そう伝わるからだと思う。
「広島平和式典」。
今の状況では、
硫黄島の慰霊祭のような「真の慰霊」からは程遠い。
いや、これから益々遠くなってしまう。
広島市のHPを見ると、
「平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)」
こう書かれている。
「広島慰霊式典」
これだけにして欲しい。
いまの「喧騒」と「雑音」の中で、
肝心のことが忘れ去られてしまうのであれば、
これだけにして欲しい。
この日一日は、静かに黙祷する日。
静かに御霊を慰める日。
正時ごとか、毎時15分に、
「鎮魂の鐘」を鳴らす。
「安らかに」
そういう一日にして欲しい。
純粋な気持ちで「慰霊の日」を過ごしたい。
そう思う。