市丸利之助 海軍少将。硫黄島からの「ルーズベルトへの手紙」。
- 2023/07/25
- 18:42
★人種的差別撤廃提案 WIKI
★人種的差別撤廃提案
人種的差別撤廃提案(Racial Equality Proposal)とは、
第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会に
おいて、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を
明記するべきという提案を指す。
イギリス帝国の自治領であったオーストラリアや
アメリカ合衆国上院が強硬に反対し、
ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で
否決された。
国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は
日本が世界で最初である。
日本人として、東洋人として、また有色人種として、
多くの先人たちは誇りを持って行動したのだと思う。
硫黄島から市丸利之助海軍少将がルーズベルトに
宛てた手紙は、それらの全てを読み取ることの出来る
手紙だと感じる。
白人優位の世界から、アジアはもとより「共存共栄の世界」へと
変革していこうとしていた先人たち・・。
しかし、何故これが、狂わされて行ってしまったのか・・。
★硫黄島からルーズベルトに宛てた手紙。拉致問題解決を遅らせた「自虐史観」から目覚めるためにも読んで欲しい。
ルーズベルトに与うる書
【ルーズベルトに与うる書 … 市丸利之助海軍少将】
日本海軍市丸海軍少将がフランクリン・ルーズベルト殿に、
この手紙を送ります。
この戦いが終わるに当たって、
私はあなたに一言を告げることがあります。
ペリー提督の下田入港を機として、日本が世界と国交を
結ぶようになって百余年が間、日本の歩みというものは
至極難儀を極め、自らが望んでいるわけでもなく日清戦争、
日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変と経験し、
不幸なことに貴国と交戦するにまで至りました。
これについてあなたがたは日本の戦争に対し、
或いは好戦的で残虐な国民であると、
或いは黄色人種の跋扈(ばっこ=「のさばり、はびこること」)だとか、
或いは軍閥の専断によると言われますが、
これはとんでもなく的外れであります。
あなたがたは真珠湾の不意打ちを唯一つの対日戦争に
対する宣伝資料としているようですが、日本が自滅から
逃れるため、このような戦争を始めるところまで
追い詰められた事情は、あなたがたが最もよく存じている
ところではないでしょうか。
畏れ多くも日本天皇は、皇祖皇宗建国の
大みことのりに明らかであるように、
養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を
三綱とする八紘一宇(天下を一つの屋根の下に)
という言葉で表現される国家統治計画に基づいて、
地球上のあらゆる人々はその自らの分に従って
『その生まれた土地においてその生を享受する』
このような恒久的世界平和の確立を唯一の念願と
されているに他なりません。
このことはかつて、
「四方の海 皆はらからと 思ふ世に
など波風の 立ちさわぐらむ」
(意訳:人は皆家族であるのに、なにゆえ争わねばならないのか)
という明治天皇の御製に言われていることと同じで
あります。
これを聞き、あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト
閣下が感嘆したことをあなたも良く知っていることでしょう。
我々日本人にはいろいろな階級の人がおりますが、
つまるところ彼らは色々な職業につきながら、
この天業を助けるために生きているのです。
我々軍人もまた、戦争という生業でこの天業を
広く推し進める助けをさせて頂いております。
今の我々は、あなた方の物量を誇る航空戦力や艦砲射撃に
対して圧されている状況にありますが、 精神的には充実して
おり、士気はますます高揚し、歓喜に溢れているのです。
これが天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理で
ありますが、あなたやチャーチル殿には理解できないかも
しれません。
あなた方の精神的な弱さを悲しく思い、一言書かせて
いただきます。
あなた方の立ち振る舞いをみると、白人とくに
アングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしよう
とし、その野望の為に有色人種を奴隷としてきたでは
ありませんか。
好計(かんけい=「悪だくみ」)を弄して有色人種を騙す
という、いわゆる悪意のもとの「善政」によって、
彼らから考える力を奪い、無力にしてきたのです。
近世になって日本があなた方の野望に抵抗して、
有色人種とくに東洋民族としてあなた方の束縛から解放を
試みましたが、 あなた方は日本の真意を少しも理解しよう
とはせず、ひたすら有害な存在であるとして、かつては
友邦であったはずの日本人を野蛮人として、
公然と日本人種の絶滅を口にするように
なったのです。
どうして神意に背くのでしょうか。
大東亜戦争により、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、
それぞれ各地の民族が善政を行い、そしてあなた方が
これを破壊しなければ、全世界が恒久的平和を実現する
のも決して遠くはないのです。
あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているのにも満足せず、
数百年来あなた方の搾取から逃れようとする哀れな人類の
希望の芽を、どうして若葉のときに摘み取ってしまうのですか。
ただ単純に東洋のものを東洋に返すということに過ぎないのです。
あなた方白人はどうしてそうも貪欲で狭量なのでしょうか。
大東亜共栄圏はあなた方の存在を少しも
否定しません。
むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の
安寧幸福を保障するということに日本天皇の
神意があるということを理解できる雅量を
あなた方に望んでいるのです。
ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解が原因で
人々が闘争することがいかに悲惨であるか、痛嘆せざるを
得ません。
今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは
慎みますが、彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、
一次大戦終結のとき、その開戦の責任一切を敗戦国である
ドイツ一国に被せ、極端な圧迫をするあなた方の戦後処置に
対する反動であることを看過できません。
あなた方がいかに善戦してヒトラー総統を倒したとしても、
どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するつもり
でしょうか。
おおよそ世界が強者の独占するものであるならば、永久に
闘争を繰り返し、遂に世界人類に安寧幸福の日は来ることは
ないでしょう。
あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとして
おります。
あなた方も得意になっているのでしょう。
しかしながら、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、
そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。
願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、
その轍を踏むことがないように。
市丸海軍少将
【ルーズベルトニ与フル書 原文と英文】
★【国際派日本人養成講座 人物探訪:
海軍少将・市丸利之助 ~硫黄島よりルーズベルトへの手紙】
★【国際派日本人養成講座 人物探訪:
海軍少将・市丸利之助 ~
硫黄島よりルーズベルトへの手紙】様より、
補足説明(抜粋)。↓
大東亜共栄圏については種々の議論があるが、
少将の主張は、昭和18年11月に東京で行われた
大東亜会議で満洲、中国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドの
政府・独立勢力の代表者を招いて、
自主独立の尊重や人種差別の撤廃、
互恵的経済発展を謳った大東亜共同宣言と
軌を一にしている。
「ヒットラーの行為への言及を慎むが、」という一節は、
ユダヤ人排斥に対する少将の反撥を窺わせる。
それに続く、第一次欧州大戦で敗戦国ドイツに
一切の責任があるとして、天文学的な賠償金額を
押しつけた事が、ヒットラーのナチズムを生んだという指摘は、
現代の歴史学でも定説となっている。
ヒットラーもスターリンも同じだ、
どうして米英がスターリンと協調できるのか、
という少将の問いかけは、その後すぐに
米ソの冷戦が始まったことを考えれば、正鵠を得ている。
ウィルソン大統領は自ら第一次大戦後のパリ講和会議を主催したが、
ベルサイユ条約は米国議会で批准されず、
直接国民に呼びかけた大統領選でも大敗して、
失意のうちに世を去った。
少将の「言外の意」とは、敗戦国にすべての責任を押しつけて、
再び戦争の種を蒔くな、ということであろう。
■ルーズベルトに与うる書■
日本海軍市丸海軍少将、
書を「フランクリン ルーズべルト」君に致す。
我今我が戦いを終るに当り、
一言貴下に告ぐる所あらんとす。・・・・
昭和20年3月26日早朝、硫黄島での陸海軍残存兵力4百は
第2飛行場西にテントを張っていたアメリカ軍後方部隊を奇襲し、
死傷者132名の損害を与えた。
海兵隊が応援に駆けつけ、戦闘が終わると、
日本兵の死体196体が残されていた。
その遺体の一つから、
冒頭の文で始まる「ルーズベルトに与ふる書」の
日英両文が発見された。
従軍記者エメット・クロージャーは、
発見の経緯と手紙の本文を4月4日本国に向けて打電し、
その内容は米国海軍当局の検閲後、
「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」以下、
各紙に掲載された。
その見出しは
「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」
であった。
この手紙は、戦後ベストセラーになったジョン・トーランドの
「昇る太陽-日本帝国滅亡史」に全文掲載され、
いちやく有名になった。
■硫黄島での戦い■
硫黄島は、サイパンなどのマリアナ諸島と東京の中間に
位置する品川区ほどの小島である。
米軍機がマリアナ諸島から日本本土を空襲するためにも、
ぜひ確保しておきたい要地であった。
市丸が着任した時、すでに稼働しうる航空機は10数機に
過ぎなかった。
栗林忠道陸軍中将の統率のもと、市丸少将は6千名近い
海軍将兵を率いて、地下深くの洞窟陣地構築に加わった。
米軍の猛爆は地下でかわし、上陸してきた所を叩くという
栗林中将の新しい戦術で、結果的には日本軍は
36日間持ちこたえ、2万余の大半が戦死したが、
7万5千の米軍に対して死傷者2万6千近い大損害を与えた。
米国内では実質的な敗戦ではないか、との批判が出て、
太平洋における米海兵隊の最高位の将軍は退陣に
追い込まれた。
■ますらをの道■
(※「ますらお(益荒男)」とは、心身ともにすぐれたりっぱな男子。 )
昭和20年初頭、敵上陸を目前に控え、米軍の空襲は連日続いた。
しかしその合間には、少年兵達が集まって、小学唱歌を歌う光景も
見られた。
「おもえば遠し 故郷の空 ああわが父母 いかにおはす」
と歌う声を岩陰で聞きながら、市丸少将は密かに涙した。
「朝夕の 十有余日 ますらをの 道を陣地に 巡り説くかな」
少年兵も含め、将兵たちはすでに玉砕を決意していたであろう。
その部下達に対して「ますらをの道」を説くとは、
この戦いで死ぬことの意味を明らかにしておきたい、
と言うことであったろう。
それは自ずから大東亜戦争全体の意味を問うことにつながった。
2月16日、米艦隊が硫黄島を包囲し、上陸前の爆撃と艦砲射撃を
始めた。
市丸少将は地下20m、硫黄噴気が充満する摂氏45度の壕内で、
ロウソクの明かりをたよりに自らの考えを
米国大統領ルーズベルトへの手紙という形で書き上げた。
そしてハワイ生まれの日系2世兵士のそれを英訳させたのである。
■市丸少将とルーズベルト大統領■
市丸少将の手紙は、4月4日に米国に打電されてたが、
ルーズベルト大統領はそのわずか8日後に死去した。
大統領が手紙を読んだかどうかは定かではない。
しかし「得意の絶頂に於いて失脚」したウィルソン大統領の
「轍を踏むなかれ」との警告が的中したかのようである。
そしてその後の米国指導者達は、
少将の予言したスターリンとの確執もあって、
日本を同盟国として育てようという方針に転換した。
少将の最期の願いは、実現したと言ってよい。
当時の駐米英国公使、ロナルド・キャンベルは
英国外務省に宛てた手紙の中で、
「(優秀な)白人種とアジア人との交配によって
新しいアジア系民族を産み出し、立派な文明と社会を
アジアに建設するのがルーズベルト大統領の考えだった」
と伝えている。
ただ
「大統領は、
(白人より二千年も遅れた頭がい骨をもつ)
日本人は、この対象から除外し、もとの
四つの島に隔離して次第に衰えさせようと
考えていた」。
ルーズベルト大統領の露骨な19世紀的人種差別観に比較すれば、
市丸少将の地球上のあらゆる人類に
「その郷土においての生を享有せしめ、もって恒久的世界平和の確立する」
ことを願う理想は、21世紀にも通用するものである。
後世の子孫への価値ある遺産となるのは、
一時の戦いの勝敗や武力の優劣よりも、
先人の気高い理想であるとすれば、
市丸少将の一編の手紙を、敗軍の将の戯言(たわごと)と
看過することはできないはずである。
市丸少将。
3月26日戦死。
ただ、公式な戦死日は、
市丸少将が訣別の電報を打電された
3月17日とされているとのこと。
市丸利之助 - Wikipedia
硫黄島の戦い。
1945年2月16日から3月26日まで。
40日間の激戦だった・・。
★地球史探訪: 「大日本帝国のユダヤ難民救出」:国際派日本人養成講座 _H14.09.08
【地球史探訪: 「大日本帝国のユダヤ難民救出」】
(国際派日本人養成講座 _H14.09.08)
《人種平等の精神を国是とする大日本帝国が、
ユダヤ難民救出に立ち上がった。》
■1.ユダヤ人排斥■
1933(昭和8)年1月、ヒトラーは首相に就任すると、
4月1日にユダヤ人排斥運動声明を行い、ユダヤ人商店の
ボイコッ ト、ユダヤ人の公職追放、教師・芸術家・音楽家の
締め出し、ニュルンベルク法(1935)によるドイツ市民資格剥奪、
と矢継ぎ早にユダヤ人排斥政策が打ち出していった。
急増するドイツ、オーストリアからのユダヤ人難民を救うために、
米国のハル国務長官が1938(昭和13)年3月に国際委員会を
組織する提案を行い、その第1回委員会がフランスで開かれた。
しかし国際社会はユダヤ人に対して冷たかった。
米国の議会は自国の政府提案を拒否。
ベルギー、オランダ、アルゼンチン、ブラジル等は、
移民受け入れの余地なしと回答。
カナダは協力の意向あるも、収容能力に限度あり。
イギリスは、農業移民ならギニア植民地に収容できるかも
しれない、といかにも老獪な事実上の拒否。
同年11月7日にユダヤ系ポーランド人の一少年が、パリの
ドイツ大使館書記官を暗殺したのを機に、宣伝相ゲッベルスは
報復を呼びかけた。
その結果、ドイツ全土のほとんどのユダヤ教会堂が焼討ちや
打ち壊しにあい、7千5百のユダヤ人商店が破壊された。
街路がガラスの破片で覆われて輝いたので、「水晶の夜」と
よばれる。
ユダヤ人の死者は91人、強制収容所送りは2万6千人に
達したという。
この事件を機に、ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。
■2.帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神■
水晶の夜から1ヶ月も経たない昭和13年12月6日、
日本では5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で
「猶太(ユダヤ)人対策要綱」が決定された。
これはユダヤ人を
「獨国 (ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度に出づるは
啻(ただ)に帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神に
合致せざる」
として、以下の3つの方針を定めたものであった。
・ 現在日本、満洲、支那に居住するユダヤ人は他国人と同様
公正に扱い排斥しない。
・ 新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処
する。
・ ユダヤ人を日本、満洲、支那に積極的に招致はしないが、
資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。
(すなわち招致も可)
この時、日本はドイツ、イタリアとの三国同盟の前身たる
防共協定を結んでいた。
その同盟国のユダヤ人排斥を「人種平等の精神に合致せざる」
と批判し、かつ世界各国が受け入れを拒否した難民にも、
入国規則内で公正に対応する、というのである。
「帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神」の代表的な
ケースが、1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で、
国際連盟規約の中に「人種平等条項」を入れるよう提案した
事だろう。
しかし日本提案は圧倒的多数の賛成を得ながら、議長の
米国大統領ウィルソンの策略で否決された。
有色人種国家として、ただ一国近代化に成功して、
世界5大国の一角を占めるようになった日本にとって、
長年戦ってきた人種差別に今また苦しめられている
ユダヤ民族の苦境は、他人事ではなかった。
■3.陸軍随一のユダヤ問題研究家・安江仙弘大佐■
5相会議での「猶太(ユダヤ)人対策要綱」策定に大きな力と
なった人物がいた。
安江仙弘(やすえのりひろ)陸軍大佐である。
安江大佐は幼年学校時代からロシア語を学び、シベリア出兵時に
武功をたて、その後、陸軍随一のユダヤ問題研究家となった。
この前年の昭和12(1937)年12月26日、満洲ハルピンにて、
第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、ハルピン陸軍特務機関長の
樋口季一郎陸軍少将が、ドイツのユダヤ人排斥政策を批判し、
「ユダヤ人を追放するまえに、彼らに安住の地をあたえよ!」
と演説して、聴衆を感激させた。
この大会のわずか3日前に樋口少将を補佐するために
陸軍中央部から派遣されたのが、安江大佐であった。
大会後、翌13年1月21日には、安江大佐が中心となって、
関東軍は「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」を策定し、
世界に散在せるユダヤ民族を
「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合するを理想とする」
とした。
「八紘一宇」の八紘とは、四方と四隅、すなわち、世界中の
ことで、一宇とは「一つ屋根」を意味する。
初代・神武天皇が即位された時に、人民を「大御宝(おおみたから)」
と呼び、天の下のすべての人民が一つ屋根のもとで
家族のように仲良く暮らすことを、建国の理想とされた。
英語では、Universal Brotherhood(世界同胞主義)
と訳されている。
関東軍はこの八紘一宇の精神をもって、ユダヤ民族を助ける
べきである、と安江大佐は主張したのである。
同時に「施策要領」は
「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を
抑止す」
とした。
ユダヤ難民をあくまで人道的に取り扱うが、ユダヤ資本を
あてにするような事はしな い、という方針である。
この後、3月8日から12日にかけて、約2万人(一説には数千人)
のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で押し寄せ、吹雪の中で
立ち往生している所を、樋口季一郎少将が中心となって、
特別列車を出して救出した。
■4.八紘一宇を国是として■
安江大佐は9月19日、外務省本省において、外務、陸海軍
関係者を集めて、ユダヤ問題に関する講演を行い、次のように
述べた。
ユダヤ人は従来第三者のごとき地位にあったが、支那事変と
ともに我々の軒先に入ってきたのである。
これをいかに扱うか。
ドイツのごとき方法を取るべからざることは明瞭である。
日本の八紘一宇、満洲の諸民族協和の精神
からしても排撃方針は不可である。
よろしく保護し、御稜威を彼らにおよぼすべきである。
御稜威(みいつ)とは皇室の民を守る威光のことである。
その威光をユダヤ難民にも及ぼすべく、安江大佐は
日本帝国全体の国策決定を板垣征四郎・陸軍大臣に
働きかけた。
曰く:
我国は、八紘一宇を国是としておりユダヤ民族に対しても
これを例外とすべきではない。
彼らは世界中に行先無く、 保護を求めているのである。
窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずという。
況(いわ)んや彼らは人間ではないか。
講演、板垣大臣への説得とも、常に「八紘一宇」が安江大佐の
主張の基盤となっていた。
こうした働きかけにより12月6日の五相会議において、
板垣陸軍大臣より「猶太人対策要綱」が提案され、
国策として決定されたのである。
■5.安居楽業■
五相会議の20日後、12月26日から3日間、
第二次極東ユダヤ人大会がハルピンで開かれた。
上海、青島、天津、大連、などから1千余名のユダヤ人が
集まった。
日満側からは安江大佐やハルピン副市長・大迫幸男などが
参列した。
大会では以下のような決議文を採択し、カウフマン会長名で
ニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人団体等に打電された。
(漢字、カタカナ書き、句読点を一部改める)
この日本国ならびに満洲国の示されたる
誠意と同情的処置とは
吾人をここに安居楽業せしむると共に、吾人特有の文化を
発展せしめ、かつ日満両国に対し、善良なる人民たらしめ得る
ものとす。
ここに民族大会において吾人はユダヤ民族が民族的平等と
民族的権利とを国法にしたがい享受すると共に東亜新秩序の
再建に努力しある日満両国に対し、あらゆる協力をなすべき事を
誓い、かつこれを吾人同族に対し、呼びかけるものなり。
■6.安江機関■
昭和15(1940)年12月、安江大佐は予備役に編入され、
またその年の第4回ユダヤ人大会は中止命令が出た。
安江大佐の推測では、この二つは東条陸軍大臣の直々の
命令であり、それは9月に締結したばかりの日独伊三国同盟の
手前、ナチス・ドイツへの気兼ねと、大佐が東条と対立関係に
あった石原完爾中将の同志であった、という2点が理由だった。
安江大佐が松岡外務大臣を訪ねると、自分から満鉄の
佐々木副総裁によく話をしておくとして、
今後は外務省とも密接に連絡して戴きたい。
私は貴君に働いて戴き度い事が色々ある。
ユダヤ人に対しても八紘一宇の大精神で向かわねばならない。
ドイツの尻馬に乗って日本がユダヤ排斥をやらねばならぬ
理由がどこにありますか。
日本には日本の立場がある。
今、日本を見渡した所、真にお国のためにユダヤ人に
接している人は貴君しかいない。
とにかく貴君の今後の活動のために尽力します。
松岡外相の尽力で、安江大佐は満洲国政府顧問、および
満鉄総裁室付嘱託となり、安江機関が昭和16年1月に
大連に誕生して、満洲・支那在住のユダヤ人保護の活動を
続けた。
■7.ゴールデン・ブックへの記載■
昭和16年11月1日、安江大佐に対し、ハルピン市の
ホテル・モデルンで数百人のユダヤ人列席のもと、
世界ユダヤ人会議代表M・ウスイシキン博士署名の
「ゴールデン・ブック」への登録証書授与が挙行された。
ゴールデン・ブックは、ユダヤ人の保護・救出で功労のあった
人を顕彰するためのものである。
この時、吹雪の中で2万人とも言われるユダヤ難民を
救出した樋口季一郎少将、および、樋口・安江と力を
あわせてきた満洲ユダヤ人社会のリーダー、カウフマン博士も
ともに記録された。
恐らく同時期であると思われるが、海軍の犬塚惟重大佐も、
ゴールデン・ブック記載の申し出を受けた。
犬塚大佐については、いづれ稿を改めて紹介するが、
犬塚機関を作って、安江大佐とも協力しながら、上海の
ユダヤ人社会を保護した人物である。
犬塚大佐は次のように述べて、申し出を辞退したという。
私の哀れなユダヤ難民を助け東亜のユダヤ民族の平和と
安全を守る工作は、犬塚個人の工作ではなく、天皇陛下の
万民へのご仁慈にしたがって働いているだけである。
私はかつて、東京の軍令部にいた時、広田外相からこんな
話を伺ったことがある。
広田外相が恒例の国際情勢を陛下に奏上申しあげたうちで
ナチスのユダヤ虐待にふれたところ、陛下は身を乗り出されて
憂い深げにいろいろご下問なさるので、外相は失礼ながら
陛下はユダヤ人を日本人と思い間違いあそばしているのでは
ないかと不審に存じ上げたが、陛下は
「いやユダヤとわかっているが、哀れなもの」
と仰せられて、そのご仁愛のほどに恐懼したというのだ。
私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、
しいて名前を載せたければ陛下の名を書くように。
■8.もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか■
ユダヤ人を救出して顕彰せられた日本人としては、
「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」
を受けた杉原千畝がいる。
ポーランドの独ソ分割によって追われたユダヤ難民6千人
(推定)に対して、日本へのビザを発行して命を救った
カウナス(バルト3国の一つ、リトアニアの臨時首都)領事代理で
ある。
大量のビザ発行手続きに関しては、外務省訓令を逸脱して
いており、これをもって杉原の行為を、国策に反した個人的
善行と見なす見方があるが、五相会議決定、安江機関、
犬塚機関という一連の流れの中で見なければならない。
杉原自身はユダヤ人救出の動機を後年、こう述べている。
それは私が、外務省に仕える役人であっただけではなく、
天皇陛下に仕える一臣民であったからです。
悲鳴をあげるユダヤ難民の前で私が考えたことは、
もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか、
ということでした。
陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろうか。
それとも温情をかけられるだろうか。
そう考えると、結果ははっきりしていました。
私のすべきことは、陛下がなさったであろうことをするだけでした。
もし外務省に(ビザ発給に関する)訓令違反を咎められたら、
私が破ったのは訓令であって、日本の道徳律ではないと
思えば良いと腹を決めました。
■9.八紘一宇が作った「楽園」■
安江大佐が説き、日本政府が制定した
ユダヤ人保護政策は、常に「八紘一宇」を
その根拠としてきた。
それははるか神話の時代から皇室の理想として綿々と
受け継がれ、当時においては
昭和天皇の民族の分け隔てなく人民を愛する
一視同仁の大御心に体現されていた。
安江大佐が「八紘一宇」というのも、
犬塚大佐や杉原領事代理が「昭和天皇の御心」というのも、
同じなのである。
それぞれがこの理想に導かれて、それぞれの場でユダヤ人
保護・救出に尽くしてきたのだった。
日本占領下の上海で犬塚機関が保護した
ユダヤ難民は2万5千人を超え、大戦中も
「一つ屋根」の楽園だった。
そこで暮らした経験を持つヒルダ・ラバウという女性が
次のような詩を残している。
ちかごろ上海のことを見聞きするにつれ
わたしは神にいのる
しかるべき人々に称賛が与えられますように!
かれらがあらたに誇りが持てますように
その人たちは上海のナチが振るおうとしていた
おそろしい暴力から、わたしたちを守ってくれました
救助者がだれだったか、あばくのは簡単なはず
いまではだれもが知っている、その正体は日本人
「憎しみ」ばかりが広まっていたとき
かれらはユダヤ人に親切だった
みなさん!
あの悲劇で6百万人が消えた道をわたしたちは
逃れたのです。
異国にあって、わたしたちは「自由」だった
・・・
収容所のことで不満をいう人はいますが、
皆殺しになった人びとを思えば、
「上海は楽園でした」
(文責:伊勢雅臣)
杉原千畝が近年クローズアップされ、それに伴って今度は、
上に書かれているように、当時の日本の国策が、まるで
同盟国であったドイツに倣って反ユダヤ政策であったかの
ように同時に流され、結局「戦前戦中の日本叩き」に
利用されていますが、そのメディアらが流す「嘘」に騙されない
ためにも上記の事実を知ることは非常に重要であると思います。
メディアの流す、ドラマチックな「杉原千畝の物語」は
結局は、杉原氏自身の思いとは全く違う方向であり、
また日本を貶めるため、昭和天皇を貶めるための
「プロパガンダ」の一つといってもいいのです。
もうひとつ。
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2016年12月27日
【国連ユネスコ分担金支払い凍結解除で安倍総理を叩きまくる人たちが
小池応援団と重なる理由を考える。いつ、小池応援団は気付くのだろう。
「現実の政治の厳しさ」を。 そこに関わってきた多くの人たちの努力を】。
安保理改革についての安倍総理の考えと努力。
それを「腰砕け」と叩く極右たち。
メディアをコントロールし続ける扇動政治家どもによる、
メディアを使った巧妙な捏造扇動。
「恩讐を越えて前を見据える」
そうやってきた安倍総理と岸田外相を裏切ったオバマのことは、
今になって判る。やはり変わらず冷酷だったのだと。
過去の歴史も振り返る。
国際連盟脱退の場にいた松岡洋右と、国際連合加盟承認の
場にいた重光葵。
喝采と悔恨・・。
扇動の恐ろしさは、いつも変わらない。
【再掲】
http://archives.mag2.com/0000000699/20150830080000000.html
■■国際派日本人養成講座 ■■
【国連本部に翻った日の丸~ 重光葵と国連加盟】
■2.「君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい」
国際連合への加盟は、亡き松岡洋右が死の直前に、巣鴨刑務所で
重光に頼んだことだった。
この時、重光も戦犯容疑者として、巣鴨にいた。
一貫して戦争を避けようと努力した重光を戦犯容疑者として逮捕した
のは、ソ連の仕業だった。
かつて外務次官の頃に、一様に共産化を恐れる欧米列強に対して
防共協定を提案したことがあり、それを恨まれていたのである。
松岡は、特別に重光との面談を依頼し、3分間のみ英語で話すという
条件で許された。
車椅子の松岡はこう語った。
__________
君に、国際連合への加盟を実現してもらいたい。
僕が席を蹴って立った国際社会に日本を戻してほしいのだ。
どうか、君の手で、国際社会復帰を、果たしてくれ。
この思いを、君に託さなければ、僕は死んでも死にきれない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
鋭さを失った松岡の目に涙が光っていた。
「僕が席を蹴って立った国際社会」とは、松岡が1933(昭和8)年2月に、
国際連盟総会で満洲国に関するリットン調査団報告書が採択された
際に、席を立ったことである。
これが契機となって、日本は国際連盟から脱退した。
松岡の国際連盟総会退場は、国民から喝采を浴びたが、実は
本意ではなかった。
イギリスの代表団は、非公式に松岡に提案してきていた。
「満洲での日本の利権を認めるから、いちおうリットンの報告を
汲んで、顧問団を受け入れろ。
その顧問団は日本人を主体にする」
というのだ。
松岡は「この提案を受け入れるしかない」と東京に打電したが、
単なる口約束だと一笑に付されてしまった。
「このままでは連盟による経済制裁が待っている」
と再度、打電したら、その返事は
「ならば脱退してしまえ」
という指示だった。
松岡は国際連盟脱退を深く悔やんでいて、重松に今生の頼みを
託したのである。
■3.「私は、とにかく国交を回復できればいいんです」
東京裁判では禁固7年の刑を受けたが、4年半の拘留の後、
昭和25(1950)年11月21日に仮釈放された。
64歳になっていた。
この年、日本は国連加盟を申請していたが、ソ連が拒否権を
発動した。
常任理事国の1国でも拒否すれば、加盟は認められない。
ドイツでも朝鮮半島でも、アメリカとソ連の冷戦が激化しており、
日本が国連に加盟すると、アメリカの発言力が増すことをソ連は
嫌ったのだ。
昭和29(1954)年、鳩山一郎内閣が誕生すると、重光は9年ぶりに
外務大臣に返り咲いた。
まず注目したのは、インドネシアのバンドンで開かれるバンドン会議
だった。
アジア、アフリカの有色人種の国際サミットで、重光は腹心の加瀬俊一を
送って、各国の日本加盟への支持をとりつけた。
次に重光は国連本部に出向いて、総会議場のラウンジで、レセプションを
主催した。
飲み物を片手に、和やかな雰囲気の中で、重光は国連事務総長や
各国代表に、日本の加盟支持を訴えた。
3ヶ月後、国連の理事会で、日本の加盟に関する二度目の審議が
行われたが、またもやソ連の反対で否決された。
ソ連はアメリカ主導のサンフランシスコ講和条約を拒否した。
日本の国民も、日ソ中立条約を一方的に破って、満洲で日本の
居留民を襲い、日本将兵をシベリアに抑留したソ連を嫌っていた。
しかしソ連の反対を覆さなければ、国連加盟は望めない。
重光はソ連との国交正常化に取り組んだ。
昭和31(1956)年7月29日、重光はモスクワの空港に降り立った。
ソ連の外相やフルシチョフ第一書記とも会談したが、北方領土問題に
ついては、取りつく島がなかった。
ここはソ連案を呑んで、領土問題を棚上げして国交正常化するしかない、
と判断したが、日本政府も譲らない。
重光は交渉を決裂させて帰国した。
交渉失敗の批判は聞き流した。
その後、駐日ソ連大使と綿密な事前交渉を経て、妥結が可能という
手応えを掴んでから、鳩山首相をモスクワに送り出した。
ソ連は重光には良い印象を持っていなかったからだ。
鳩山首相は
「せっかく、ここまで進めておいて、最後の仕上げをしないと、君が
失敗して放り出したような印象を国民に与えるぞ」
と言う首相に、重光は笑って
「何と思われようと、かまいません。
私は、とにかく国交を回復できればいいんです」
10月19日、鳩山はモスクワで日ソ共同宣言に調印し、
国交正常化を成功させた。
新聞は、鳩山の成果と書き立てた。
■4.「たった今、可決されました」
昭和31年12月12日の夜、重光は外務省の大臣執務室に
泊まり込んだ。
この日、ニューヨークの国連本部で、安全保障理事会が開かれ、
日本加盟に関する採択がなされる予定だった。
結果が出次第、ニューヨークの日本領事館が国際電話を入れることに
なっていた。
スチーム暖房は夜間は切られてしまい、各人はオーバーコートを
着込み、持ち込んだガスストーブで暖をとりながら、寒さしのぎに日
本酒をちびちびやって、ひたすら電話を待っていた。
朝5時、現地はもう夕方だ。
遅すぎる。
何か問題が起きたのではないかと、不安が心をよぎる。
しかし、可決するまで、何度でも全力を尽くすしかない。
それが自分に与えられた最後の使命だと覚悟した。
その時、机の上の黒電話がなった。
雑音とともに、興奮気味の声が聞こえた。
「たった今、可決されました。
日本の国連加盟が決まりました」
重光が親指と人差し指でOKのサインを出すと、職員たちから
大歓声があがった。
総会での承認は12月18日となり、その日のうちに重光が国連総会の
日本代表と決まった。
■5.国連本部ビルに翻る日の丸
12月18日、重光は国連総会議場の演壇に立って、スピーチを
始めた。
訥々とした言葉で、まず加盟承認の礼を述べた。
そして冷戦下の国際情勢に言及し、今なお世界各地で紛争が続く中、
戦争の苦しみを知る日本は、武力以外の力で世界に貢献していく
意思がある、と語り、こう締めくくった。
__________
今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、
両文明の融合の産物です。
そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。
このような立場にある日本は、その大きな責任を、十分に自覚しています。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
席に戻る重光に、あちこちから「加盟、おめでとう」「心からお祝いする」と
声がかかった。
重光は笑顔で礼を言いながら、席に戻った。
すると机の上には、ほかの79カ国と同様に、黒地に金文字で国名を
刻んだ木製のプレートが置いてあった。
「JAPAN」の文字が誇らしげに輝いている。
まさに日本が国際社会に復帰した象徴のように見えて、重光は感動した。
総会が終わると、日本代表団は総会議場の前庭に出た。
そこには横一列に全加盟国の国旗が掲揚されている。
一本のポールの細紐に日の丸が結ばれた。
そして日本代表団の目の前で、日の丸はするすると上がっていく。
冬の青空と39階建ての国連本部ビルを背景に、色とりどりの各国国旗に
並んでいる。
その中に、白地に赤丸の美しい日本国旗が翻っていた。
その時の光景を、重光は次のような歌に詠んだ。
霧は晴れ 国連の塔は 輝きて 高くかかげし 日の丸の旗
国際連盟脱退への後悔の念と、敗戦を経て、多くの人たちの
努力によって国際連合に加盟し国際社会へと復帰した日本。
政治は、たった一日で成し遂げられるものなんかないということ。
長い時間をかけて「信頼」を築き上げてこそなされるもの。
その「信頼」を壊すことは本当に一瞬で出来る。
そこには必ずと言っていいほど「扇動」があり、国民はその扇動に
流されてきた。
2002年に知った北朝鮮拉致事件。
絶対に拉致被害者を取り戻したいと、安倍さんをずっと応援してきた。
誠実さと嘘をつかないこと。
総理の間もこのことを仰っていた。
でも、20年間、激しい扇動がずっと続いた。
嘘・捏造によって悪人に仕立てられ、貶め、陥れられていく。
えげつないまでの扇動・・。
扇動政治家の危険はずっと書いてきた。
扇動こそが恐ろしいとずっと書いてきた。
しかしそれでも日本の扇動元がはっきりしなかった。
2年前まで。
菅義偉が総裁選に出る直前まで・・。
メディアをコントロールしているのが誰なのか。それがようやくわかった。
見誤っていた。
ミカタノフリ・正義のミカタヅラした冷酷で残虐な人物に、
騙されてきた。
何という非道・・。
そして、その日本の扇動者たちを操ってきたのは、アメリカだった。
ロシアの特別軍事作戦で、全てが解けた・・。
全てが繋がった。
何もかもが、アメリカの自作自演の嘘にまみれたシナリオの中で、
戦前も戦後も日本人は生きてきた。
安倍さんは苦しみ、福島も苦しみ、そして日本国民も苦しんできた。
これに気付いてる国は、どこにもいない。
知っているのはアメリカだけ。
日本が分断され、孤立し、破壊されて行くのを、陰で嘲笑し、冷笑しながら、
見ているのだろう・・。